「冒険・探検」というメディア
「冒険・探検」というメディア:戦後日本の「アドベンチャー」はどう消費されたか(高井昌吏著、法律文化社)
を一気に読了。
春休みにゆるゆる読むつもりで出版されてすぐに入手しておいたのだけれど、その後の想定外の身の回りの展開でお蔵入りしてしまいそうになっていた。その身の回りの変化が予想以上にストレスフルなので、鬱憤晴らしか現実逃避かわからない感じでつい手が伸びてしまって、仕事そっちのけで読みふけってしまった。
タイトルにもあるとおり、探検や冒険がどう消費されたかという「社会論」である(片隅には「Social History of Janal No1」と書いてあるので、これは社会学の一分野としてシリーズ化される気配すらある)。かくいう私は、高卒後に北海道に渡り、大学山岳部の門をたたき、もっぱら高山・極域研究に身を費やしてきて、ついには社会学部という今のポジションに落ち着き、地平線会議という居場所を得て、南極観測の最前線で指揮をとりつつも、実際には文系あたまの若者をアジっている、という研究者である。そういう我が身にとっては、書いてあること全てが突き刺さってくる内容だった。もうあちこち付箋だらけ。
マナスル初登頂という偉業を成し遂げた今西壽雄氏の「ぼんやりとした顔つき」に白州正子が見いだした「真正性」とか、戦後復興期のエクスペディションを支えていたのは戦前の大日本帝国が築いていた知的財産の一部だった、とか、のっけから引き込まれる分析や考察が目白押し。こうした考察の数々は、「消費」のされ方を様々な文献や記事から丹念に探っていくことによって実現されているのだということがよく分かる。社会学部にやってきてもう十年になるけれど、身近にいる生粋の社会学者たちのことはそれほど理解できていなかったし、積極的に理解しようとも思ってこなかった。しかし、この本によって自分の土俵に近いところで社会学的考察を論じられているのを目の当たりにして、ようやく、彼らがどのようにその生業を紡ぎ出しているのかが理解できかけてきたような気がする。
コロナ前に卒業させたゼミ生の一人が、ネパール単身旅行で体験してきたことを綴った卒論を提出してきたことがあった。読みものとしては非常に面白かった反面、学術論文としてどうなのかと考えてしまうと評価に困ってしまったのだけれど、この本を読んそれを評価するための軸をようやく与えてもらったような気がしている。北杜夫・小澤征爾・小田実ら60年代前半の青年冒険家たちが発信する内容の消費のされかたの考察に「インテリだから、冒険する」という本人の言が引用されている。それからもう半世紀もたってしまっているとはいえ、現代を生きる若者の自分探しのモノローグとして捉えて評価してあげることも社会学部であれば可能なのだと思えるようになった。
冒険・探検界で「川口」と言えば「慧海」なのに世間では「浩」、とか、こんな調子で、猿岩石・栗木と来てついには角幡に至る至高の考察の連続である。「外部と日常をつなぐ媒介者」というキーワードは、南極観測隊の広報活動の中でもずっと考えさせられてきたテーマでもあるし、また「人新世」として注目されつつある環境問題の中で、コモンとかインティマシーとかの思想的な枠組みが重要性をおびてくるだろうという予感もある。この春からは教壇からはやや遠ざかってしまうのだけれど、この本を課題図書にしてゼミを展開してみようか、とも思っているところ。
を一気に読了。
春休みにゆるゆる読むつもりで出版されてすぐに入手しておいたのだけれど、その後の想定外の身の回りの展開でお蔵入りしてしまいそうになっていた。その身の回りの変化が予想以上にストレスフルなので、鬱憤晴らしか現実逃避かわからない感じでつい手が伸びてしまって、仕事そっちのけで読みふけってしまった。
タイトルにもあるとおり、探検や冒険がどう消費されたかという「社会論」である(片隅には「Social History of Janal No1」と書いてあるので、これは社会学の一分野としてシリーズ化される気配すらある)。かくいう私は、高卒後に北海道に渡り、大学山岳部の門をたたき、もっぱら高山・極域研究に身を費やしてきて、ついには社会学部という今のポジションに落ち着き、地平線会議という居場所を得て、南極観測の最前線で指揮をとりつつも、実際には文系あたまの若者をアジっている、という研究者である。そういう我が身にとっては、書いてあること全てが突き刺さってくる内容だった。もうあちこち付箋だらけ。
マナスル初登頂という偉業を成し遂げた今西壽雄氏の「ぼんやりとした顔つき」に白州正子が見いだした「真正性」とか、戦後復興期のエクスペディションを支えていたのは戦前の大日本帝国が築いていた知的財産の一部だった、とか、のっけから引き込まれる分析や考察が目白押し。こうした考察の数々は、「消費」のされ方を様々な文献や記事から丹念に探っていくことによって実現されているのだということがよく分かる。社会学部にやってきてもう十年になるけれど、身近にいる生粋の社会学者たちのことはそれほど理解できていなかったし、積極的に理解しようとも思ってこなかった。しかし、この本によって自分の土俵に近いところで社会学的考察を論じられているのを目の当たりにして、ようやく、彼らがどのようにその生業を紡ぎ出しているのかが理解できかけてきたような気がする。
コロナ前に卒業させたゼミ生の一人が、ネパール単身旅行で体験してきたことを綴った卒論を提出してきたことがあった。読みものとしては非常に面白かった反面、学術論文としてどうなのかと考えてしまうと評価に困ってしまったのだけれど、この本を読んそれを評価するための軸をようやく与えてもらったような気がしている。北杜夫・小澤征爾・小田実ら60年代前半の青年冒険家たちが発信する内容の消費のされかたの考察に「インテリだから、冒険する」という本人の言が引用されている。それからもう半世紀もたってしまっているとはいえ、現代を生きる若者の自分探しのモノローグとして捉えて評価してあげることも社会学部であれば可能なのだと思えるようになった。
冒険・探検界で「川口」と言えば「慧海」なのに世間では「浩」、とか、こんな調子で、猿岩石・栗木と来てついには角幡に至る至高の考察の連続である。「外部と日常をつなぐ媒介者」というキーワードは、南極観測隊の広報活動の中でもずっと考えさせられてきたテーマでもあるし、また「人新世」として注目されつつある環境問題の中で、コモンとかインティマシーとかの思想的な枠組みが重要性をおびてくるだろうという予感もある。この春からは教壇からはやや遠ざかってしまうのだけれど、この本を課題図書にしてゼミを展開してみようか、とも思っているところ。