「探険」か「探検」か,そして「きれい」じゃない南極の写真

imageこのポスターの校正作業をしていて,おもしろいコメントをいくつかもらった.一つ目は「探険」は「探検」じゃないかというコメント.もう一つは「宗谷の写真がきたないのが気になる,南極の写真は普段は大変きれいな画像ばかりだったので・・・」というコメント.

実は,どちらの点も,この講演会の心として私が意図的に仕込んこだとだったので「そうです,そうなんです,よくぞ気づいてくれましたね」としか応えようが無い.とは言っても,コメントを下さった人たちだからこそ気づくことができた点でもあるかも知れないと思い直してみたりもする訳で,一般向けには修正に応じたほうが良いのかもしれない.ただ,信念に基づいて仕込んだ点への指摘だけに,修正に応じるには,確信犯の心をまず説いて鬱憤を晴らしておかねばならない.ということで,以下鬱憤晴らし.

まず,「探険」か「探検」について.この講演会のタイトルの心は,「憧憬」ともいえる「極地」や「冒険」への情熱が,極域科学という営みの源泉に普遍的に存在していたことの主張,そしてそういう素地を若き大学生に植え付ける機能を「北大山岳部」も担ってきていた,という主張にある.その意味で「たんけん」は「探険」でなければ真意を伝えることができない.

南極観測の生みの親である永田武先生や初代越冬隊長の西堀栄三郎先生,はたまた極地アジテータの加納一郎先生らが著わされた南極観測に関する一般書を紐解くと,そこには「探険」と「探検」が混在している場合が多い.ただ,その使い分けが意図的になされているのかどうか,それをハッキリと断定する術はなく,書かれた文脈から判断する以外にないのであるけれど,先生方の文章を読むに付け,私にはひしひしと「探険」の文意が伝わってくるのである.

次に,写真の質について.きれいな南極の写真なら自前のストックにいくらでもある.でも今回の講演会にはそういう新鮮さ(富山弁でいう「きときと感」)はそぐわないと感じて,あえてこの古ぼけたざらざら感のある写真を選んだ.つまり,講演会でじかに聴衆と顔を合わせながら話している演者のリアル感と,この古ぼけた写真の印象とのギャップの間に,参加者が「山岳館」という空間を共有しているという親近感,そして時間の隔たりの中にも連綿たる継承があったという連帯感,その感覚を体感して欲しいと思ったのである.

実はこの写真は「AACH画像アーカイブス事業」によって収集された写真の一枚で,第一次南極観測隊が撮影したものである.データによれば提供者は渡邉興亜元極地研所長となっているが,この画像が汚れている原因が,オリジナルからそうだったことにあるのか,それともアーカイブの作業で電子ファイル化した際のスキャンの仕方にあったのかは定かではない.しかし,50年以上前の写真となれば,この程度の色あせや汚れがあったとしても当然のこと.逆にコメント者が抱いた「南極の写真は大変きれいな画像ばかりだった」という意識は,最近巷にあふれている南極情報に,すっかり毒されてしまった感覚だと私には思えてしかたがない.そういう感覚にも一矢報いたいという意図がこの写真にはある.

さらに,この企画が「北大山岳館講演会」である,という意味もこの写真に込めているつもりである.どこかで使われている写真をだたコピーしたのではなく,こういう写真が,山岳館を舞台に実施された「画像アーカイブス事業」の一枚としてデータベースに収蔵されている,という,その点をこの画像で主張したかったのだ.だからこそ,普段見慣れたような「きれいな写真」であっては意味が半減してしまうのである.

私はしばしば,アンチテーゼの形でアイロニックに物事を言ってしまうことがある.今回のこの二点についても,その性格が多分にあるのかもしれない.それだからこそ,ちょっと引っかかる部分があるからこそ,人を惹き付けるポスターとしての説得力があるんじゃないかなぁ...と思ってしまうのは,やっぱりひねくれ者の考え方なんだろうか?

ということで,結局は素直にご指摘に従って修正したものを「完成版」にしてしまう,そういう私がここにいたりする.もちろん,これをトークのネタにすることも忘れてはいない.