啓迪高等小学校
正月三が日も明け、卒論の最終チェックの合間を縫って、実家の整理を続けています。そんな“ゴミの地層”の奥深くから、また一つ懐かしい記念品が姿を現しました。
2005年に廃校となった 八人町小学校 ——総曲輪小学校と統合され、現在の芝園小学校へと歴史を引き継いだこの学校の、さらにその源流にあたる「啓迪高等小学校(明治13年創立)」 の銘を刻んだ鋳物の硯屏です。
八人町小学校は、富山市のまさに“ド中心”に位置した名門校で、私の父も長くここに勤務していました。父は、ノーベル化学賞受賞者 田中耕一氏 が4〜6年生のときの担任でした。Wikipediaにも「将来の基礎を育む理科教育を受けた」と記されています。
この硯屏の裏書には
「昭和五十年『観点変更と思考の組み替え』出版記念」
とあります。
当時の八人町小学校は、いまで言うところの“初等教育版スーパーサイエンススクール”のような実践を展開しており、その成果を数年おきに書籍として世に問うていました。この「観点変更と思考の組み替え」という教育思想は、今風に言えば、認知心理学の アブダクション推論 や 記号接地 にも通じるものではないか——と、個人的には感じています。
父はまさにその教育実践の渦中におり、その成果が田中さんのノーベル賞につながったと言っても、あながち言い過ぎではないでしょう。
田中氏がノーベル賞を受賞した際、最初の記者会見で、作業服姿のまま雛壇に座らされた田中氏が「自分の科学への興味を芽生えさせてくれたのは澤柿先生です」と語った瞬間、会場は騒然となりました。
——「その先生、何者だ?」——
疑い深い報道陣の視線も、父が残していた克明な教育記録によって一転します。一介の地方教師の試行錯誤が、きちんと教育の理論と成果に裏打ちされていたことが明らかになり、父は思いがけず脚光を浴びることになりました。
時系列で言えば、父が田中氏の担任として理科教育を試行錯誤していたのが昭和45年前後。その約5年後にこの硯屏が作られたことになります。成果をまとめ、書籍として結実させるには、ちょうどよい時間の流れだったようにも思えます。
さて「啓迪」とは、添えられていた説明書にある通り、
「道をひらき、導く」 という意味を持つ古い言葉です。
一方、私の母校・北海道大学には「恵迪寮」という学生寮があり、こちらは『書経』の「迪(みち)に恵(したが)えば吉、逆に従えば凶。惟れ影響たり」に由来しています。同じ読みでも、由来は異なります。
この説明書を記した 山田孝雄 文学博士 もまた啓迪高等小学校の卒業生であり、その子・山田忠雄 氏は三省堂『新明解国語辞典』の編輯主幹を務めた人物でした。
——教育、言語、思考、そして一人の科学者の人生——
小さな鋳物の盾から、思いがけず大きな物語が立ち上がってきました。
さて、片付けが一息ついたら老爺を見舞いに病院まで行ってくるとしますか。
注:
国語辞典や認知心理学への連想は、「ゆる言語学ラジオ」や今井むつみ先生の著書などに多くインスパイアされています。
朝まで降りしきっていた雪は昼過ぎに静まり、重く垂れこめていた雲が夕刻にはゆっくりとほどけていきました。やがて青空がほころび、日没のわずかな刹那、白き峰々は茜に染まっていきました。厳しい冬の空気の中で世界が一瞬息を止めたように感じられ、病院帰りの一時、しばし言葉を失って見入っていました。
今年もこの光景に立ち会えたことのありがたさ、ただ黙って胸に刻む夕暮れです。