科学とエンターテーメント
学問や基礎科学の重要性は自明なことだが,それを納得させるのは難しい.お金がからむ場合は特に.納得させる方法として「プレゼン」は重要.そこに「話題性」があればもっといい.話題性と効果的なプレゼンが一緒になると,それはエンターテーメントという世界に入っていくことになる.
うちへのアクセスを解析していて知ったスラッシュ・ドット・ジャパンの記事にそんな意見が書き込まれていた.
エンターテーメントの世界となれば,まず思いつくのがマスコミ.しかし,科学者は概してマスコミ嫌いが多いように見える.「アリ」の例をみてもわかるように,マスコミは「話題性」を追求するあまり,行き過ぎ・誤り・不正確を誘発してしまう傾向がある.そういう事態をおそれて,科学者は,自らがエンターテーナーとなりマスコミ化してしまうようなことを避けたがるんだろう.
「南極教室」に関連して,みんな冷めているのはなんで?,と日々考えているのだが,今のところ思いつくのは,こんなところ.
確かに,学問の領域に留まって冷静に考え,世の中の熱狂ぶりに対抗していく立場も必要である.私もそんなことを書いたことがある.けれども,大衆の熱冷ましや,逆に冷めた大衆を喚起する効果も,実際に何らかの形で発揮されなければ意味がない.
大学院に関していえば,今の時代,大学院を出たからといって皆が研究者になるわけではない.でも院生は何かを学びたいと思って入ってくるから,彼らが修了して社会に出て行くときに何らかの満足度がないと,学問に対する失望感と無関心を生むことになり,研究者がストイックぶって外向きに消極的になっていることはかえって逆効果だ.
では,学者や研究者としての本分とエンターテーナーとしての役割とを使い分ける分岐点をどこに置くか.この基準に迷って,なかなか一歩が踏み出せない研究者もいるのではないか.私は,その基準は,スラッシュ・ドット・ジャパンの意見にあった「一次資料」と「二次資料」という言葉で表現されるものにあるのではないかと思う.原典(生データ)と解説資料と言い換えてもよい.
研究者とは,一次資料を読みこなすことができて,自分自身もその生産に関わることができるもの,そしてエンターテーナーとは,その一次資料を租借し二次資料として活用できるようにするもの,その先に聴衆としての一般人がいる.そういう考え方.
この考え方にたてば,報道としてのマスコミや解説員は,まさに二次資料を提供するエンターテーナーそのものだ.近年の大学院教育は,一次資料を生産するところまで行かなくても,それを理解し租借できるエンターテーナー的人材を輩出することにあると言えるのではないだろうか.しかも,行き過ぎ・誤り・不正確を誘発することがないような思慮深さと自制の効いた人材を.
かみ砕いてあげる対象が子供たちであれば,それは環境教育などの分野で活躍できるわけだし,一般人・官公庁・企業であればNPO法人の指導者としての立場が期待されることになる.
そういう人材を教育しなきゃいけなんだから,教える側もエンターテーナーになって手本を示さなきゃならない.
それから,前にも書いたハイテクカンニングに対して,教官として自衛策をとるとすれば,一次資料に当たって物事を考えさせるような課題を学生に出せば,かなりの不正は防げるのではないかと思う.ハイテクカンニングがまかり通っている背景には,課題を出す側の安易さもあるのではないか.その点で,原典にあたって根本を探らせる訓練を学生に積ませる,という視点は,なかなかイケルんじゃないかと思ってみたりする.
Q&A掲示板で回答する際も,その点に気を遣っていればなんとかうまくやっていけるんじゃないかと思う.