グローバルスタンダード?ーgLGMについての考察

お昼ご飯を食べながら,3月12日に書いた「gLGM」について平川教授とおしゃべり.

「g」とは「グローバル」の意である.「LGM」とは,いわゆる「最終氷期の氷河最拡大期」のことで,これは今まで,ヨーロッパや北アメリカにおいて氷河や氷床が最終氷期中で最も拡大したとされるMIS2の時期を指すものとして認識されてきた.

ところが,たとえばヒマラヤや日本などはちょっと様相が違って,氷河の最拡大時期がMIS2とは一致しなかった地域があることが明らかになりつつある.つまり,こうした地域では「最拡大期」=「LGM」=「MIS2」としてしまうわけにはいかないのである.そこで,ヒマラヤや日本が含まれるPEP-IIトランセクトについてのOno et al. 論文では,従来の意味の最拡大期を「gLGM」=「MIS2」とし,本来の意味の地域によって異なる可能性のある「最拡大期」を「LGM」として,両者を区別したのであった.

しかし,「LGM」の元祖のヨーロッパにしても北アメリカにしても,あくまでも地球上の一つの地域にすぎないことはヒマラヤや日本と等しいことである.だから,従来の「LGM」が欧米地域で定義されたからと言って,それを汎世界的に認められるハズだとでもいうかのように「g」をつけてしまうのはどうかと思う.そもそも,氷河編年は地域性を前提としており,拡大期の名称も地域ごとに異なるのが通例である.

せっかくヒマラヤや日本で欧米とあわない結果をだして「LGM」の地域性を主張しているんだから,グローバル的な考え方を排除する方向にもっていってもよかったんじゃないかと思う.確かに氷河編年学はヨーロッパで発祥し発展してきたから,その功績は尊重しなければならないけど,それがグローバルスタンダードでもあるわけがない.なにも欧米にこびることはないんである.「g」と小文字にしているところに,若干の救いを感じる.西半球という意味の「w」ならもっと良かったのに...

これは,極論してしまえば,地質原理の一つとされる「斉一説」の誤った適用例の側面を持つ,と言ってもよいかもしれない.「斉一説」の誤った用い方についてはこちらを参照されたいが,そこでは,「斉一説」の適用問題について,「激変」と「漸進」という「時間」のとらえ方の対立という側面を述べた.それに対して今回の場合は,「空間性」についての事例を示すものと捕らえることができると思う.

ということで,個人的には,巷でもてはやされている「グローバルスタンダード」という感覚には良い感情を持っていないということもあって,「gLGM」にもちょっとイチャモンをつけてみたくなった.

なお,「氷河の最拡大期」よりも「最寒冷期」のほうを意識するのであれば,「gLGM」の意味も活きてくると思う.こちらのほうが「斉一性」にも合致する.このように考えると,MISが確立した近年における「LGM」の使われ方は「最寒冷期」を意識したものであるようにも再認識される.従って,あくまで「氷河の最拡大期」を意識しているOno et al.への上記の私の指摘は,あながちはずれたものではないはず.

この問題は,グローバルな気候変動の復元については氷河編年学は決定的な弱点をかかえている,ということの裏返しでもあり.白岩さんなんかに言わせれば,「だから氷河編年学なんて…」ということになるんだろうな.

そもそも「グローバル」って何だろう?「時空的な斉一性」を保てるレベルの話ってことなのか?だから物理屋指向の氷河屋さんは「グローバル」を強調したがるのか?でもそれじゃつまんないよなあ...と思ってしまうのは私だけ?

氷河が拡大縮小したら,それによって影響を受けるのは氷河の流域という地域であり,海面変動や植生変化などのその他の環境変化にしても,実際に影響を受けるのはローカルな事象のはず.しかも,氷床ほどに大きくなれば,地域的なものでも全球的なプロセスにまで影響を及ぼすこともあり得る.ローカルに発現する事象の裏側にあるグローバルなメカニズムそのものを明らかにしていくことが重要なのはもちろんだが,その一方で,ローカルな差異を見いだしていくことも,環境科学の両輪の一方として必要なことだと思う.まあ,そこに氷河編年学の存在意義を見いだしていくしかないのかな.

こんなことを書いていたら,氷河湖決壊に関する研究集会の折りに岩田さんが「最新氷期」という言い方に異議を唱えていたことを思い出した.このことについては,さらなる考察を続けていくつもりである.