年金問題もどき
数年前の大学法人化の直前に,研究科の点検・評価が入って,評価機構に提出する業績資料作りにかなりの時間を使わされた.そして今,法人化と学院への改組から数年たって,またまた点検.評価が課せられている.その中で,前回の法人化前の時に作った資料をもう一度出してほしいという依頼がきた.
前回の点検時に苦労した経験から,最近はなるべく同時進行・即時更新をこころがけて院生の業績を記録するようにしてきたが,これも自助努力の結果にすぎない.教員のほうは研究者としての自己評価もかかっているので,自前で自分の業績を管理している人が多いけれども,所詮,自己申告がなければ正確な把握が困難なのが業績記録.定期的な出入りが必然である院生や研究員の業績を過去にさかのぼって追跡することは非常に難しい.そのため,ついつい記録から漏らしがちになるのが苦労の種だ.
そもそも,業績を申告しないと修了させない,という規定でも作らない限り,院生にとっては組織の評価なんてどうでもいいことで,業績を記録してもらおうとするモチベーションは彼らにはまったくない.その一方で,組織としては,提示できる成果の量如何によっては自身の存亡もかかってくる時代になっているだけに,細大漏らさず記録しておく重要性はますます大きくなっている.なんとかこのギャップを埋めて,部局レベルで組織的に責任をもって記録する方法ってできないものだろうか?
この問題,昨今の年金記録管理問題にも似ているところがある.年金とは違って,学会発表や投稿論文の記録を申告しなかった院生が将来的に直接不利益を被るわけではないけれども,少なくとも大学院という最高学府で人生のいくばくかの時間を学術活動に費やしたことの記録がすっぽりなくなってしまうことは,ある意味,悲しいことだとは思わないだろうか?
人によっては,この大学院にいたことすら記録や記憶から抹消したいと思うケースもあるかもしれないけど...ここには,学術活動を個人の活動とみなすか,それとも組織に帰属するものとみなすか,という大きな問題もはらんでいる.極端な話,指導教員になんの連絡もなく,共同発表者に入れることもなく,院生が勝手に学会発表したり論文を投稿したりすることだってあるわけ.それをとがめられるかどうか,逆に院生のほうが,指導教員あっての研究成果だと思って発表できるかどうか,ということ.
教員側は教員側で,勝手に発表されたものであっても,実績として提示できるものならなんでも入れたい,という誘惑にも駆られるのは確か.勝手にやりやがって,と心で思いつつ業績リストに入れてしまうこともあるだろう.まあ,この場合は院生の個人的な研究成果として尊重しているだけマシで,世の中には,院生の成果をそのまま自分のものにしてしまう指導者もいると聞く.
いづれにしても,自己申告に発する業績記録を,自助努力によって日々蓄積していく積み重ねが,将来的に組織の存亡にかかわってくるという構図はまさに年金問題である.これはもう,指導教員と院生との関係レベルの話ではないことは確かだ.
まあ,要するに,本業以外のこんな雑用で時間をとられるばかばかしさと,教育という行為がそういう評価体制に縛られていることの理不尽さと,その世俗的重要性と組織的対応がかみ合っていないことへの不満と...ふと,まるで昨今の世の中の縮図をみているかのような気持ちになった,ということなんである.