『海の水位の科学史』
たしか「山の高さ」という本はあったけれど、「海の水位」のことをちゃんと書いた本はなかったかも...最近出た『海の水位の科学史――基準点0をめぐる不安定な歴史』を読みながら、まずそう思いました。読了後にみた訳者あとがきにも、「(翻訳者から見る)本書の最大の難所は、類書がない、ということだった」とあって、なるほどこれは訳す側にとっては大変だっただろう、と思う一方で、読む側の私には、この一文がとても腑に落ちたのでした。
私は地形学を学び、気候変動研究にたずさわるなかで、氷期・間氷期サイクルにおける海面変動、そしてその主要因である氷河・氷床の変動を考えてきました。その過程で、「海水準」というものの扱いにくさは、ずっと身にしみて感じてきました。海面は一見すると、地球上のどこにでも広がる水平な基準面のように思えます。しかし実際には、潮汐、気圧、風、海流、地殻変動、重力場、氷床変動、さらには観測点や測定期間の取り方によって、その意味は大きく変わってしまうことに注意が必要です。これは「海の水位」が、自然現象でありながら、同時に人間が定義し、測り、制度化してきたものでもあるからなのです。
本書で強く印象に残ったのは、海の水位という一見確固とした自然事象が、時代ごとの科学者や技術者によって定義され直し、理解のされ方を変えてきたという点がしっかりと分析されていたことです。人々は測定機器や技術を競って改善し、科学論争を繰り広げ、さらには海の水位をもとにした基準を植民地統治の手段として用いてきていました。本書で明らかにされているのは、測るという行為が、単に自然を客観的に写し取ることではなかったという点なのです。何を基準とするのか、どこをゼロとするのか、誰の観測を正統とみなすのか。そこには科学だけでなく、国家、制度、権力、技術、そして時代の欲望が入り込んでいるのだと、あらためて考えさせられます。
冒頭に書いた「山の高さ」とは、じつは鈴木弘道氏著の『山の高さ』という書のことです。そこに記述されている山の標高もまた、自然にそこにあるようでいて、実は測定の方法や基準面によって成り立っていました。また、そもそも山の高さはどこから測られているのかを考えると、結局は海の水位、すなわち基準面としての海が立ち現れてきますので、より本書の意義が深まってきます。
また、「測る」という営みをめぐっては、ほかにも印象深い本があります。ダニエル・ケールマンの『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』では、世界を測ろうとする近代科学の野心とロマンが描かれていますし、ケン・オールダーの『万物の尺度を求めて――メートル法を定めた子午線大計測』には、普遍的な尺度を作ろうとする人間の壮大さと危うさが刻まれています。また、日本の近代化という文脈では、吉田春雄氏の『メートル法と日本の近代化――田中舘愛橘と原敬が描いた未来』も思い出されます。尺度を統一し、標準を定め、測る単位を国家の制度に組み込むことは、富国強兵の近代化とも深く結びついていました。測ることは、知ることであり、支配することであり、国をつくることでもあったのでした。
研究室の書棚に鎮座するこうした本の背表紙を眺めていても、「海の水位」そのものを正面から扱った本は、たしかにあまり思い当たりません。山の高さを語る本はあった。地球を測る人々の物語もあった。メートル法をめぐる近代国家の物語もあった。けれど、すべての高さの出発点であるはずの海面そのものを、歴史的・思想史的に問い直す本は、思いのほか少ないようです。訳者のいう「類書がない」という言葉は、あまりにも基本的なものが、実はこれまで正面から語られてこなかったということを示しているようにも感じました。
もう一つ印象的だったのは、本書が読み物として面白いだけでなく、第一級の学術書でもあるということです。最初は、海水準をめぐる科学史の読み物として気軽に読み始めたのですが、巻末には参考文献や索引がしっかり整備されており、途中から「ああ、これは単なる科学読み物ではない」と姿勢を正しました。測地学、地理学、地質学、潮汐学、地球物理学、さらには宇宙測地学にまで関わる問題が、膨大な史料とともに組み立てられています。読みやすいけれど、扱っている射程はかなり深い本です。
実際、海水準という言葉は、地形学でも気候変動研究でもごく普通に使います。しかしそこには驚くほど多くの専門領域が折り重なっています。どの海面を指しているのか。どの時間スケールの変動を見ているのか。地殻の上下動をどう扱うのか。氷床の成長や融解による海水量の変化と、重力場や地殻の応答をどう切り分けるのか。私自身も、氷河・氷床変動と海面変動という研究テーマを追求していくなかで、これらの周辺諸分野にはいやおうなく向き合わざるを得なくなっていました。
一方、ゼロメートルとは何か。平均海面とは何か、そもそも平均するとはどういうことか、といった問いは、いわゆる「理系分野」としての地形学や測地学の専門的な問題であると同時に、科学が世界をどのように測り、秩序づけ、説明してきたのかを問う、人文社会学的な「科学史」そのものの問いでもあります。「哲学と地理学は諸学の母」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。社会学部に所属しているということもあるのかもしれませんが、この年になってくると、研究現場の最前線を追うこと以上に、哲学的・科学史的に自分の来し方を見返したくなる気持ちが強まってきているようにも思えます。
海はただそこに広がっているのではなく、人間によって測られ、名づけられ、平均され、基準にされ、時に権力の道具にもされてきた。すべての高さの理学的な基準であるはずなのに、それそのものが社会の動きのなかで揺らぎ、作られ、更新されてきました。「海の水位」という一見シンプルな対象には、科学の測定や定義化の一方で、人間社会としての世界認識にどのように影響してきたのかを描き出す「科学史」の要素がつまっていました。本書はそれに真正面から取り組んだ、第一級の研究書だったのでした。
なにごとにつけ、「基準点0」は、決して安定したゼロではありませんね。むしろ、そこには科学者たちの格闘と、国家の思惑と、植民地支配の影と、そして地球を理解しようとする人間の切実な営みが重なっています。今はそんなことを授業で教えたいなぁ、と思っています。
私は地形学を学び、気候変動研究にたずさわるなかで、氷期・間氷期サイクルにおける海面変動、そしてその主要因である氷河・氷床の変動を考えてきました。その過程で、「海水準」というものの扱いにくさは、ずっと身にしみて感じてきました。海面は一見すると、地球上のどこにでも広がる水平な基準面のように思えます。しかし実際には、潮汐、気圧、風、海流、地殻変動、重力場、氷床変動、さらには観測点や測定期間の取り方によって、その意味は大きく変わってしまうことに注意が必要です。これは「海の水位」が、自然現象でありながら、同時に人間が定義し、測り、制度化してきたものでもあるからなのです。
本書で強く印象に残ったのは、海の水位という一見確固とした自然事象が、時代ごとの科学者や技術者によって定義され直し、理解のされ方を変えてきたという点がしっかりと分析されていたことです。人々は測定機器や技術を競って改善し、科学論争を繰り広げ、さらには海の水位をもとにした基準を植民地統治の手段として用いてきていました。本書で明らかにされているのは、測るという行為が、単に自然を客観的に写し取ることではなかったという点なのです。何を基準とするのか、どこをゼロとするのか、誰の観測を正統とみなすのか。そこには科学だけでなく、国家、制度、権力、技術、そして時代の欲望が入り込んでいるのだと、あらためて考えさせられます。
冒頭に書いた「山の高さ」とは、じつは鈴木弘道氏著の『山の高さ』という書のことです。そこに記述されている山の標高もまた、自然にそこにあるようでいて、実は測定の方法や基準面によって成り立っていました。また、そもそも山の高さはどこから測られているのかを考えると、結局は海の水位、すなわち基準面としての海が立ち現れてきますので、より本書の意義が深まってきます。
また、「測る」という営みをめぐっては、ほかにも印象深い本があります。ダニエル・ケールマンの『世界の測量――ガウスとフンボルトの物語』では、世界を測ろうとする近代科学の野心とロマンが描かれていますし、ケン・オールダーの『万物の尺度を求めて――メートル法を定めた子午線大計測』には、普遍的な尺度を作ろうとする人間の壮大さと危うさが刻まれています。また、日本の近代化という文脈では、吉田春雄氏の『メートル法と日本の近代化――田中舘愛橘と原敬が描いた未来』も思い出されます。尺度を統一し、標準を定め、測る単位を国家の制度に組み込むことは、富国強兵の近代化とも深く結びついていました。測ることは、知ることであり、支配することであり、国をつくることでもあったのでした。
研究室の書棚に鎮座するこうした本の背表紙を眺めていても、「海の水位」そのものを正面から扱った本は、たしかにあまり思い当たりません。山の高さを語る本はあった。地球を測る人々の物語もあった。メートル法をめぐる近代国家の物語もあった。けれど、すべての高さの出発点であるはずの海面そのものを、歴史的・思想史的に問い直す本は、思いのほか少ないようです。訳者のいう「類書がない」という言葉は、あまりにも基本的なものが、実はこれまで正面から語られてこなかったということを示しているようにも感じました。
もう一つ印象的だったのは、本書が読み物として面白いだけでなく、第一級の学術書でもあるということです。最初は、海水準をめぐる科学史の読み物として気軽に読み始めたのですが、巻末には参考文献や索引がしっかり整備されており、途中から「ああ、これは単なる科学読み物ではない」と姿勢を正しました。測地学、地理学、地質学、潮汐学、地球物理学、さらには宇宙測地学にまで関わる問題が、膨大な史料とともに組み立てられています。読みやすいけれど、扱っている射程はかなり深い本です。
実際、海水準という言葉は、地形学でも気候変動研究でもごく普通に使います。しかしそこには驚くほど多くの専門領域が折り重なっています。どの海面を指しているのか。どの時間スケールの変動を見ているのか。地殻の上下動をどう扱うのか。氷床の成長や融解による海水量の変化と、重力場や地殻の応答をどう切り分けるのか。私自身も、氷河・氷床変動と海面変動という研究テーマを追求していくなかで、これらの周辺諸分野にはいやおうなく向き合わざるを得なくなっていました。
一方、ゼロメートルとは何か。平均海面とは何か、そもそも平均するとはどういうことか、といった問いは、いわゆる「理系分野」としての地形学や測地学の専門的な問題であると同時に、科学が世界をどのように測り、秩序づけ、説明してきたのかを問う、人文社会学的な「科学史」そのものの問いでもあります。「哲学と地理学は諸学の母」という言葉がありますが、まさにそんな感じです。社会学部に所属しているということもあるのかもしれませんが、この年になってくると、研究現場の最前線を追うこと以上に、哲学的・科学史的に自分の来し方を見返したくなる気持ちが強まってきているようにも思えます。
海はただそこに広がっているのではなく、人間によって測られ、名づけられ、平均され、基準にされ、時に権力の道具にもされてきた。すべての高さの理学的な基準であるはずなのに、それそのものが社会の動きのなかで揺らぎ、作られ、更新されてきました。「海の水位」という一見シンプルな対象には、科学の測定や定義化の一方で、人間社会としての世界認識にどのように影響してきたのかを描き出す「科学史」の要素がつまっていました。本書はそれに真正面から取り組んだ、第一級の研究書だったのでした。
なにごとにつけ、「基準点0」は、決して安定したゼロではありませんね。むしろ、そこには科学者たちの格闘と、国家の思惑と、植民地支配の影と、そして地球を理解しようとする人間の切実な営みが重なっています。今はそんなことを授業で教えたいなぁ、と思っています。