若き日のアルゲリッチ、還暦のブニアティシヴィリ


9月の東京は、結局、1日から30日まで毎日降水を記録するという、観測史上初の長雨になってしまいました。10月に入った今朝は、ようやくすかっとした青空が広がり、気温も上昇中です。
 北陸育ちの私でも、この陰鬱な日々にはさすがにまいりました。移動時間にはお気に入りの曲を聴きながら気晴らしを続けてきましたが、そんな中、最近Apple Musicのおすすめで、偶然カティア・ブニアティシヴィリの演奏に出会いました。
 最初に感じたのは、「なんだか若いころのアルゲリッチに似ているな」ということ。もちろん同じではありません。ブニアティシヴィリのほうが、よりロマンティックで、耽美的で、感情の揺れを大胆に前へ出してくる感じがします。でも、どうしてもあのアルゲリッチの前へ前へと進む力強さや、少し危ういほどの情熱も重ねてしまいます。
 まぁ、それも無理はないのかもしれません。クラシック音楽が何なのかもよく分かっていなかった中学生のころ、初めてマルタ・アルゲリッチのチャイコフスキー・ピアノ協奏曲第1番を聴きました。たぶん、そこで初めて「ピアノ協奏曲って、こんなに人を昂らせるのか」と知りました。そしてその演奏はその後ずっと私の基準になりました。いろいろなピアニストや協奏曲を聴いても、どこかであの盤のアルゲリッチと比べている自分がいます。のちにはアシュケナージなどの著名ピアニストも好きになっていきましたが、若いころは、あの情熱的で力強く、少し危ういくらい前へ突っ込んでいくアルゲリッチこそがピアノだ、くらいに思っていました。
 そういえば、思いがけない場所でアュケナージを生で聴いたことがあります。大学院生のころ、北極圏スピッツベルゲン島に調査に入っていたときのこと。「北極圏でピアノコンサート」と銘打った今考えてもかなり豪華なステージが開かれていて、それを聴いたのです。ただし優雅にチケットを握って会場入りしたわけではありません。その日は、一緒にキャンプしながら調査していた先輩の吉川さんと、氷河の融け水が流れる冷たい川をゴムボートで下ってロングイヤーの街まで出てきたところでした。全身ずぶ濡れ、身体は芯まで冷え切り、服装もクラシック鑑賞とはかなり縁遠い。そんな濡れネズミ二匹が、たまたまコンサート会場の脇にたどり着いて、ステージの横からこっそり音を聴いていたのでした。著名ピアニストの演奏を、北極圏でずぶ濡れで立ち聴き。今思えば、これ以上ないほど豪華なのか、これ以上ないほどみすぼらしいのか、よく分からない音楽体験だったのでした。
 チャイコフスキーの1番には、もう一つ強い記憶があります。南極です。あの圧倒的な静寂とピンと張り詰めた寒さの中に一人たたずんで、携帯プレーヤーから流れるコンドラシン指揮でアルゲリッチが奏でる1番をイヤフォン越しに聴くのが密かな楽しみでした。
 中学生のころに出会った曲が、その後、北極にも南極にもついてきたわけです。そして還暦を迎えた今、Apple Musicのアルゴリズムに突然ブニアティシヴィリを差し出され、また若いころのアルゲリッチを思い出している。どうやら最近のおすすめ機能は、音楽の好みだけでなく、昔の記憶まで勝手に掘り起こしてくるらしいのです。
 若いころの私は、ガラスのように鋭く触れれば切れそうなアルゲリッチの情熱に惹かれていました。今もその魅力は少しも変わりません。ただ、よく似た激しさを持ちながら、そこにもう少し甘美さや陰影をまとわせるブニアティシヴィリの演奏にも、強く惹かれるようになった今の自分がいます。それは単に「年を取って好みが丸くなった」ということではなく、還暦まで積み重ねてきた時間のぶんだけ、情熱そのものだけでなく、その奥にある甘さや翳りまで聴くようになった、ということなのかもしれません。
 たぶん今の私は、ブニアティシヴィリの演奏だけを聴いているのではなく、その向こうに若き日のアルゲリッチを、そのさらに向こうに、中学生だった自分や、北極でずぶ濡れになっていた自分や、南極の広大な空の下でフードの中にイヤフォンをつけていた自分まで重ねて聴いているのでしょう。若い演奏家の情熱に惹かれているつもりが、実はApple Musicに、自分の青春を再生されているのかもしれません。
 長雨の9月がようやく明けて、季節は10月へ。空が少し高くなった朝に、昔なら鋭さだけに耳を奪われていた音楽から、今は甘さや陰影まで聴き取っている自分に気づく。そんなところにも、秋と還暦はよく似合うのかもしれません。
 せっかくなので、この文章を「イラストにして」とAIにお願いしてみたら、こんな絵ができました。Apple Musicが青春を再生し、AIがその断片に絵をつけてくれるとは、なかなか妙な時代です。