環境研究者

エドモントン滞在記(2002.9.20より転載)

NetScienceというサイトが発行しているメルマガ“NetScience Interview Mail”のアーカイブで,地球フロンティアの江守 正多氏のインタービュー記事を読み,「第一世代」の環境研究者と「第二世代」の環境研究者という考え方にいたく共感する.

■第一世代の人の特徴っていうのは、もともとは地球環境の研究やってたわけじゃないですよね。彼らが若いときにはそんなジャンルはなかったですから。

■口実としての地球環境テーマというものと、地球環境に対する責任。その間になにがしかの形でいるっていうのが第一世代だと思うんですよ。

■第二世代っていうのはそうじゃないような気がするんですよ。自分がそうだと思って言ってるんですけどね。そもそも地球環境に動機づけられてやっている。

なるほどなあ...これは私が以前に書いたコラム“改革の前に清算を”にも通じる考え方だ.

かくいう私は,「環境科学」と名の付く修士号と学位を授与されており,名目上は「第二世代」の環境研究者に分類されることになる.はずかしながら,その名に恥じないほど地球環境というものについて真剣に考えているかと問われれば怪しい部分も多い.江守氏が述べている“基礎をおろそかにしないで...第一世代と議論しても負けないようになってこその地球環境研究だと思う”という部分に救いを感じるのが唯一の幸いか,と胸を撫で下ろしているくらいである.実際のところ,北大の地球環境科学研究科に“環境科学”の学位を持っているか,あるいは「第二世代」の環境研究者を自認できるスタッフはどれくらいいるのだろう?

上記のコラムとの関連でいうと,私が小野教授を評価しているのは,北大の地球環境研に所属する教授として,その前進である環境研時代から一貫してその理想像みたいなものを追求してこられたことにあると思っている.小野教授自身,「第一世代」の環境研究者に属する研究者であると思うが,環境科学の勃興と変遷を身を持って体験されてきて,その酸いも辛いも重々理解された上で,改革に対する様々な提言をされているのだと思っている.当然,「第二世代」の環境研究者のありかたについても,その経験に基づいた教授なりの考え方をお持ちのこととも思うのである.新しい修士のコースも,きっとそういう理念と必要性に基づいた構想であると信じたい.小野教授の改革案に批判的な意見をお持ちの方は(他の点でいろいろ問題があるにせよ)少なくともこの点だけは,ないがしろにして欲しくないと思う次第.

振り返ってみれば,今の地球環境研に,旧環境研から一貫して所属している教官はどれだけいるだろうか?ざっとみたところ,旧環境派はほんの数えるほどだ.また,ほとんどの教官はほぼ間違いなく「第一世代」の環境研究者である.中には江守氏のいうように,口実としての地球環境テーマでお金を取ってるって人もいるに違いない.そのような広いスペクトルの中でも,小野教授は限りなく右に近いと考えるのは希望的過ぎる見方だろうか?(*).

別に研究者として右が良いとか左が良いとかということを言うつもりはない.しかし,教育機関として“地球環境科学”を名乗る以上は,「第二世代」の本物の環境研究者を輩出する使命を負っているはずだということは強調しておきたいと思う.院生を折り紙付きで卒業させるという使命にのっとり,実際の修得度・完成度を保証するものとして学位というものがあるとすれば,「環境科学」の学位を授与すべき研究者をどのように育てるか,ということにもっと敏感になるべきだと思う.

誤解を恐れず極論すれば,研究科自身が率先して,“地球環境博士”をスタッフとして採用すべきだと思うし,“地球環境”と名の付く研究機関にどしどし卒業生を送り込まなければいけない,というぐらいの気概があってもいいんじゃないかと思う.もちろん,ここでいう“地球環境博士”とは,決して第一世代のコピーのことではない.

残念ながら,研究科改革論議では「第二世代」の環境研究者像については曖昧なままだ.そういう議論をみるにつけ,実はここの教官たちは限りなく左に近い環境科学者たちじゃないのか,と疑念を抱かざるを得ないのである.この疑念をはらす(あるいは現状や改革の方向に納得する)には,“改革の前に清算を”実施することが非常に重要なことだと思う次第.

なお,関連するリンクをたどっていて,亡くなった沼口さんのことにも少し知る機会を得た.なかなかすごい人だったんだなあ,と残念に思う.私もボヤボヤしてないで,がんばらなきゃなあ...合掌.


*)江守氏は“第1回沼口敦さん記念シンポジウム”での講演の中で,「環境」という予算で活動する研究者像を分類されている(PDF参照).私は,おそらく小野教授はそのどれにもあてはまらないタイプだと思う(だから理解されないのか?)