市民科学者の育成と氷河地質学

東大法学部の塩川伸明教授のホームページにある“読書ノート”をつまみ読みする.中でも,クーン『科学革命の構造』・佐伯胖『コンピュータと教育』・ポパー『歴史主義の貧困』・金森修『サイエンス・ウォーズ』は非常におもしろかった.

今年度から札幌の研究室で始めた新しいコースについて,私なりに理解していることは,「環境研究者」へのステップとして「市民科学者の育成」という側面をその教育達成目標の中に多分に持ち合わせている,ということである.その意味において,『サイエンス・ウォーズ』の項の中で塩川教授が例えている,“ある種の「ヌエ的な奴ら」”を作り出そうとしているともいえる.

そういう“ヌエ”にとって習得させるべきリテラシーとは,本物の科学者の生態を実地で学び取り,その手法や考えかたを理解すること,そして自分でもそのような思考ができるようになることだと思う.これはある意味では非常に哲学的な課題であるけれども,哲学的側面と平行して,実質的な科学的課題にも正面から向き合わせないことには,本当に自分の頭で考えることもできないだろうし,血肉ともならないと思う.

例えば,塩川教授の文章は社会科学者の視点で書かれているのでやや抽象的な表現が多く哲学的である.しかし,私自身はパラダイムとか科学論争といったものにまさにどっぷりつかっている身なので,現実的・具体的例を想定できて,その趣旨は非常によく理解できた.そういう経験を院生にもしてもらいたいのである.


ではここで具体的な話に移ろう.氷河や氷床の底でどんな地質学的プロセスが働いているか?この課題に関して,1980年代にパラダイムシフトがあった(と,ある研究者が勝手に書き立てた?).現在の氷河地質研究は,まさにこの新しいパラダイムにのっとった「通常科学」の黄金期を謳歌している(かのように見える).しかし,その一方で,これとは対立する仮説が1980年代から存在していたことを忘れてはならない(じつは私はこちらのほう).厳密にいえば,氷河地質学にはパラダイムなど存在しないのだが,だれもがついついよりどころにしたくなるような理論や仮説というものが存在していて,大きな権勢をふるっていることは確かなのである.

このところ非常に気になるのは,こうした一方的な仮説がもてはやされるあまり,物事の本質が見過ごされてしまうのではないかということ.最近読んだ論文で,私には苦し紛れとしか思えないようなアドホックな解釈による考察が展開されているのを見て,それがこの分野ではある程度名の通った一流の研究者の手によるものでもあることから,非常にがっくりした思いをさせられた.こうした論文を読むにつけ,そろそろこの分野も混迷期に入ったかな,と思わざるを得ない.そう思う一方で,“新しいパラダイム”がもてはやされ「通常科学」の黄金期を謳歌しているだけに,このことに気づいている研究者は少ないにちがいないとも思う.

“新しいパラダイム”は,数式を駆使してもっともらしく氷河底の地質学的プロセスを記述しているが,そこから生み出される予測的な要素は,私にいわせれば「何もない」.地質学とは,そもそも,演繹的な反証が不可能な課題を多く扱う分野である.個々の事象を全体のコンテクストにあてはめて解釈するのがその主たる手法であり,解釈の正当性は,全体のコンテクストを合理的に説明できるかどうか,という帰納的な視点で判断されるものなのである.

その意味において,“新しいパラダイム”は必ずしも全体を説明しきれていない.地球温暖化や未来の気候変動予測が注目されている中,誤った(あるいは偏った)視点に基づく解釈やモデリングが横行するならば,きっと気候変動科学は未来予測に失敗するだろうし,その失敗から被る人類の損失も大きなものとなるにちがいない.

世の中の氷河地質学者は,一刻もはやく自らのスタンスを見つめ直すべきだと思う.もちろんこれは,自分が関わる陣営にとっても同じこと.塩川教授が『サイエンス・ウォーズ』の項で,一般の論争というもののあり方について考えている第四節は,非常に含蓄に富む示唆を私に与えてくれた.

さて,院生の諸君は以上の記述をどこまで理解できたであろうか(日本にいればレポートを書かせたいところなんだけど...)