のんびりペース
M1の修論構想発表会.なんだかのんびりペース.
講座の忘年会.遅くに保育園への迎え.
M1の修論構想発表会.なんだかのんびりペース.
講座の忘年会.遅くに保育園への迎え.
Shaw先生から時候の挨拶メール.そろそろ引退が視野に入ってきているらしい.二人の息子も独立して,家が寂しいとか.
上の息子は東南アジア担当の外交官.現地の女性と結婚しているので,先生夫婦も年に一度はアジア方面に来ているらしい.私も,ついつい,空港ロビーで偶然に出くわすこともあるんではないか,と思ったりしている.
GIS関係のソフトのアップデート.こういう作業は終わることがないし,アップデートするたびにヒヤヒヤ.特に修論追い込みの時期は心臓に良くない.だれか代わりにやってくれないかなぁ...
もしドラをもじった面白いサイトを発見.
【もし進路希望調査に「 」と書いた高校生がCiNiiの『論文』を読んだら】
「高校生が論文を読んだっていいじゃない!」
「もし論」は論文検索サービスです。論文から進路を探すという新たな方法で、高校生の進路選択の可能性を広げられるのではないかと思い、作成しました。
【氷河】で検索したら私が属するコミュニティの論文がずらずら.これは期待できる,なんて思ったけど,そもそも【氷河】で検索する高校生がいなければ話にならないんだな,これが.
もし論的には,高校生が検索してくれそうなキーワードを論文のタイトルに仕込んでおくことが重要になってくるのかも...(地球温暖化とか環境問題とか)...
昨日までの反動で鬱になりそうなのをぐっとこらえて,論文執筆に取りかかる.とある理由によりこれまで封印していた内容を吐き出す論文に,心機一転で取り組む覚悟を決めた,でも,いきなりイントロでつまづく始末.調子が出るまでしばらくかかりそう.
昨日の中尾さんの発表について,考察するのにヒントとなりそうな記事を内田樹氏が書いていた.
ヨーロッパの階層上位の方たちは自国民の平均学力にはあまり関心がない。というのは、自分の帰属する集団が潤沢な文化資本を享受しているなら、それを優先的にわかちあう相手は他国の「同類」collègue たちであって、自国の下層階級の人々ではないからである。
たぶん,中尾さんの発表を自分のこととしてまともに受け取ることができた人や,その背景に思いを馳せることができた人たちは,内田氏がいう【超領域的・超国家的なエリート集団に社会的リソースを蓄積することを優的課題にしている人たち】なのだろうと思う.あの会場にもそういう人たちが何人もいたけれど,悲しいかな,今の私はその範疇からは遠くはずれてしまっている.
調査旅行ではなく会議出張として頻繁に海外へ出かける人たちは,研究室を留守にしてまでいったい何をしに行ってるんだろう,と常々疑問に思っていたのだけれど,内田氏の洞察に助けられて,一気にその疑問が氷解した.
私も一時期,【自分の帰属する集団が享受する潤沢な文化資本】の蓄積を自分の中で優先させようと志し,その流れにうまく乗れたかな,と思えたこともあった.でも,結局,いろいろあって(それこそヨーロッパ中心の文芸共和国貴族から強烈な抵抗を受けたこともあって)挫折してしまった.もう今となっては,再起を目指すのは無理っぽいのだけれど,それにも関わらず,教育面では,超領域的・超国家的な文芸共和国へと進出できる人材を育てなきゃいけない立場になりつつある.
このギャップが埋まらない限り,悶々とした日々は解消されないだろうな.
あ〜〜やっぱり鬱だ.
集会3日目.今日もなぜか議論に集中できる.この反動で,たぶん明日から鬱になるにちがいない.
最後の中尾さんの発表は,いったい誰に何を伝えたかったのか,単なる独白なのか,しっかりメッセージを受け取ることができる人がいるのか,私にはよく分からなかった.ただ「出口戦略」を強調されていたことだけは,今所属している教育組織が転換していこうとしている方向とは折り合えることだろう,とは感じた.
1月の「雪氷」に文章が載ると言うことなので,それを熟読してもう一度考えてみようと思う.
集会2日目.調査チームの速報公開のため,プレゼンを聴きながら内職.
遠方からの参加者を3Dの世界にご案内.
懇親会に突入しても内職.
ヒマラヤ・GLOFに関する研究集会.今日から3連チャン.
早朝になんとかプレゼン資料を完成させて臨む.
さるところにしかけられた誤解の罠にすっかりはまってしまった私。
地元郷里で小学校教員をしている愚弟から、普段はほとんど連絡しないのに、早速以下のメールが来た。極地研の懇親会からホテルに戻る道すがら、彼が教える児童にもわかるように、ほろ酔い加減で返事を書いた。一風呂あびてさるところをみたら、返事したのと同じ見解が示されていて一安心。
兄へ
立山の氷河の発見(確認?)ですが、ちょうど1週間ほど前に福井先生の講演を聞いていたのでなるほどそういうことかとなんとなくわかったつもりでいたのですが、ブログにあったゲテモノって、どういうこと?
ゲテモノの意味ですが、立山は、同じ緯度のおなじ標高という条件で比べた場合、本来氷河が存在できない場所にあります。それがゲテモノの意味です。
たとえば、生態学的にペンギンが棲息できないようなところでペンギンが発見されたとしたら、それは、その発見されたペンギンが特殊な適応力を持っている、と考えるか、あるいは、これまで考えられてきた常識を超える何かさえ満たせばペンギンはどこでも生きていける、と考えるか、さもなければ、その場所にペンギンが生きていける何か特殊な条件が整っているのではないか、と考えるかです。
地理学的にみると、ヒマラヤから東に向かって氷河の分布線を伸ばしてくると、日本にかかる手前で線が途切れて、カムチャッカまで飛びます。途切れること自体は気候学的に考えても自然なことで、だからこそ日本に氷河がないことになっていてもだれもが文句を言う人はいませんでした。
ところが、今回の認定によって、世界地図の中の一本の線として立山の周辺に氷河の分布線が引かれることになりました。そうすると、非常にいびつで奇抜な場所に線があることになってしまうのです。でも、福井君が調べて明らかにしたように、氷河学的にはちゃんと氷河の条件を備えていて、ごく普通の氷体なんです。ペンギンでいえば、南極にいるペンギンをそのまま富山に連れてきて生かしておくことができる場所が見つかった、というのとおなじ状況なのです。
そうすると、立山には、他の地域にはない何か特殊な条件があるのではないか、と考えざるを得ません。その条件を明らかにしておかないと、今後もしどこかでペンギンが見つかったとしても、それイコール南極、という方程式を適用できなくなってしまうのです。例外【的】であることは、はたして本当に例外なのか、それとも普遍的にも適用できる秘められた条件があるのか、その見極めが必要になってくる、ということなのです。
特に氷河期の氷河を復元しようとする研究では、氷河学の常識に従ってその復元の妥当性を検討しますが、現場の証拠と理論の示すところとがどうしても合わなくなることもでてきます。その時に、理論が間違っているとするか、現場の証拠の解釈が間違っているとするか、あるいは、例外的な特殊なものにたまたまぶちあたった、とするか、判断しなければなりません。
一つの発見は新たな問題提起の始まりだという典型的な例だともいえるでしょう。
さるところで、「本州で野生のヒグマ発見、程度のこと」と書かれてしまいまいましたね。取材した記者さん、尋ねる相手をまちがえてますよ。
見つけた本人たちがその意義をちゃんと解説するのがいいんだろうけど、彼らの説明もあまり上手じゃない。少なくとも私はすごく意義のあることだと思っているし、その回答も用意できるのだけれど…
最低限確認しておかなきゃいけないことは、その氷はだれもが見ることができるところにずーっと昔から存在していたわけで、即物的な【新発見】ではない、ということ。それが氷河であるかどうかの【発見】は、正確には【確認】あるいは【検証】されたという意味に置き換えて語られるべき、なのだと思う。
実はその先に、これが【ゲテモノ】かもしれない、という可能性を秘めている点が重要で、それ故に氷河の理想像や一般化をめざしている向きには【おぉ、すごい】にしかならないのだろうとも思う。
理想像や一般化だけではこの世界は説明しきれない。ゲテモノからのアプローチも必要なのである。そこが私が用意できる回答のミソ。地理学の真髄と言ってもよいかもしれない。
極地研出張中にiPadで投稿してみた。この程度の文章でもなんとなくストレスがたまるかな…いうことで、ゲテモノ論考についてはまた今度。
自らの果たすべき貢献を考えることは、知識の段階から行動の段階への起点となる。問題は、何に貢献したいかと思うことではない。何に貢献せよと言われたかでもない。何に貢献すべきかである。
ドラッガー