まったく新しいテクスト分析の教科書
『まったく新しいテクスト分析の教科書』(阿部幸大著・光文社)を読みました。ひと言でいえば、とても斬新な「ゴジラ」を読まされた気分でした。
「教科書」と銘打っているだけあって、章立てに沿って読み進めるうちに、テクスト分析の基本的な考え方と手順が自然に身につくように設計されています。その構成の巧みさにも感心しました。「まったく新しい」シリーズの前作『アカデミックライティングの教科書』にも大きな衝撃を受けましたが、本書もまた傑作だと思います。
実は、私自身が社会学部で担当している「地球と自然」という授業でも、「ゴジラ」を素材にした回を展開しています。社会学部に所属する自然科学者として、学生たちに何を伝えられるのか。そう問い続け、試行錯誤の末にたどり着いたのが、「ゴジラを題材に、社会問題に直結する自然科学のテクストを読み解く、そのための視野を、地球科学の側から育てる」という授業の位置づけでした。
文系の学生には、しばしば「言語化する力」が必要だと言われます。しかし、そこで求められるのは、単なる文章表現力だけではありません。理系・自然科学的なコンテクストを理解し、その内容を損なわずに言葉へ変換する素養もまた必要です。なぜなら、自然科学の知見は、文章だけで構成されているわけではないからです。数式、グラフ、統計値、モデル、観測データ、誤差範囲、因果関係、時間・空間スケールなど、さまざまな形式によって表現されています。そうした自然科学の成果を、社会学的な視野のもとで的確に言語化するためには、まず自然科学の表現形式そのものを、ある程度「読める」必要があります。たとえば、グラフを見て「気温が上昇している」と書くだけでは不十分です。
・どの期間の変化なのか。
・絶対値なのか、平年偏差なのか。
・年ごとの変動と長期傾向を区別しているか。
・相関なのか、因果関係なのか。
・観測値なのか、モデルによる将来予測なのか。
・不確実性の幅はどの程度なのか。
これらを理解せずに文章だけを整えると、読みやすくはあっても、科学的には誤った説明になりかねません。また、文系学生に求められる言語化とは、専門用語を日常語に置き換えることだけでもありません。理解する。構造化する。読者に応じて表現する。少なくとも、この三段階が必要だと思います。
さて、本書では、第1章で「分解」、第2章で「統合」、第3章で「解釈」が取り上げられます。テクスト分析は、いわば、(分解+統合)×解釈 によって成り立つ、というのです。さらに、description、observation、interpretationという「解釈」に含まれる三つのプロセスが示され、その補助線として「参照」という考え方も登場します。この「解釈」が、私が授業で意識してきた「翻訳・媒介能力」と深く通じているように思います。
とりわけ興味深いのは、地理学との接点です。「諸学の母」ともいわれる地理学は、細分化された学問領域を示す「-logy」という接尾辞ではなく、まず記述することから始まる「-graphy」を名に持っています。地理学は、何よりもまずdescriptionから始まる学問だ、とも言えます。目の前の現象を記述し、観察し、他の事象と参照しながら、その意味を解釈していく。そう考えると、本書が示すテクスト分析のプロセスは、地理学的なものの見方とも驚くほどよく響き合います。自分の感想や考えを文章にするだけではなく、数値、図表、モデル、理論を含む異なる形式の知識を理解し、その前提、論理、不確実性を保ったまま、社会的な文脈に即して他者へ伝える。それは単なる「言語化能力」というより、科学リテラシーを基盤とした知識の翻訳・媒介能力と呼ぶほうが適切なのかもしれません。
そして、そうした能力を社会学部の学生たちに身につけてもらうことこそ、視野形成科目の重要な役割なのだと思います。社会学部の学生たちにとっては「異なる知の形式」である自然科学が選択必修の授業に登場する意味もそこにあるのだ、と自分に言い聞かせながら、授業をつくってきました。
私の授業で「ゴジラ」が登場するのは、同位体や核分裂を扱う回です。
・地球の年齢が、なぜ約46億年だとわかるのか。
・年代測定法とは、どのようなものなのか。
・半減期のような非線形の物理変化を、私たちはどのような尺度で捉えているのか。
・そして、フィンランドのオンカロに象徴される高レベル放射性廃棄物の問題を、数万年、数十万年という時間スケールのなかで、どのように考えればよいのか。
そんな構成です。「ゴジラ」は怪獣映画であると同時に、核、科学技術、災害、戦争、社会の記憶、そして人間の時間感覚を考えるための、きわめて豊かなテクストなのです。
もっとも、このような授業を展開してきた背景には、私自身の研究者としての現在地もあります。最新の研究論文に共著者として協力する体制は維持しているとはいえ、近年は専門の最前線に立つフィールドワークから遠ざかり、主体的に研究を構想し、牽引するPI研究者としての活動からも、すっかり離れてしまいました。その慰みとして、社会学部の学生たちを相手に「自然科学エバンジェリスト」を演じてきた――そんな側面も、なきにしもあらずです。しかし同時に、これは自分にしかできない地球科学の講義なのだ、という自負を持って展開してきたことも確かです。自然科学の知識を教えるだけではなく、自然科学という知の形式そのものを、社会学部の学生たちに向けて翻訳し、媒介する。そのことには、自分なりの意味があると思ってきました。
一方で、正直にいえば、「本当にこの方向でよいのだろうか」という不安も、ずっとどこかにありました。専門研究の最前線から離れた者が、社会学部で自然科学を語る。その営みは、研究者としての後退を教育によって埋め合わせているだけなのではないか。あるいは、専門外の学生を相手に、自分の得意な話をしているだけなのではないか。そんな自問が消えたことはありません。
今回、新進気鋭の著者が提示するテクスト分析の方法を学び、自分が授業のなかで試みてきたことに、思いがけず理論的な補助線を引いてもらったような気がしました。異なる知の形式を読み、その構造を分解し、再び統合し、社会的な文脈のなかで解釈する。その過程に自然科学の視点を持ち込むことは、決して場違いではありません。むしろ、自然科学を学生たちにとっての「異質な知」としてきちんと提示することによってこそ、彼らの解釈や言語化の射程を広げることができるのかもしれません。
自分の進んできた方向も、あながち間違いではなかった。
そう思えたことに、少し安堵しました。そして同時に、私自身の「ゴジラ」の読み方も、授業のつくり方も、まだまだ分解し、統合し、解釈し直すことができるのだと思わされました。