地理学専攻大学院の集中講義

ゼミ以外の授業を担当しなくなってから、もう3年ほどになります。このたび、久しぶりに地理学専攻大学院の集中講義を担当しました。
話の始まりは、約1年前にさかのぼります。探検家の岡村隆さんのお別れ会に参列した際、同席されていた本学探検部の顧問の先生から、「大学院の集中講義を担当してもらえませんか」と声をかけられました。突然の依頼だったので最初は戸惑いました。役員の仕事は想像していた以上に多忙ですし、授業の準備時間はもちろん、そもそも集中講義に求められる授業時間を確保できるのかさえ分からなかったからです。
そのとき、ふと祭壇のほうに目をやると、遺影の代わりに掲げられていた岡村さんの似顔絵が飛び込んできました。象にまたがり、勇ましくこちらへ駆け寄ってくる姿です。どう見ても、あの世から岡村さんが、「引き受けなさいよ!」と言っているようにしか思えません。それで、引き受けることにしました。
とはいえ、十分な準備時間が取れたわけではありません。そこで当初は、何とかうまく手を抜く方法はないものかと考えていたのですが、ちょうど都合よく、菅沼悠介さんの最新著書『南極の氷から探る地球大変動――氷床融解の連鎖はいつ、どのように起こるのか』がブルーバックスから刊行されたばかりでした。菅沼さんとは、一緒に南極を経験し論文も共同で書いてきた間柄です。この本で扱われている研究の背景や現場については、いわば一心同体。書かれている内容の多くを、自分自身の経験とも重ねながら話すことができます。これは手抜きに使える、と思ったわけです。さらに、少し前に紹介した『まったく新しいテクスト分析の教科書』からも大いに刺激を受けたところでした。結局、手を抜くどころか、最新の研究成果に加えて、それらに触発されて自分なりに考えてきたこともふんだんに盛り込み、久しぶりの授業に臨むことになりました。手前味噌ではありますが、菅沼さんの本の内容を、研究の背景や南極での調査経験まで含めて語れる講師はそう多くはないでしょう。しかも、刊行されたばかりのこの本を教材に授業をしたという点では、おそらく私が日本最速だったのは確実ではないかと思います。
さて、時間割は、1コマ100分の授業を1日4コマ、それを4日間ぶっ通し。教える側にも受ける側にも、ほとんど耐久レースです。ところが、ふたを開けてみれば、受講生の約8割が社会人大学院生。私より年上の方も少なくありませんでした。何より驚かされたのは、その学ぶ熱意です。長時間の授業にもかかわらず、皆さんの集中力は途切れず、質問や発言も次々に出てきます。すでにそれぞれの仕事や人生経験を積み重ね、私と同年代、あるいはそれ以上の年齢になっても、なお新しいことを学ぼうとして大学院の門をたたく。その姿勢には、教える側である私のほうが大いに感心させられました。植村直己や高倉健の名前を出しても、「それは誰ですか?」という顔をされる普段の現役学生とは違い、世相ネタも懐かし話も、驚くほどバシバシ通じます。それだけでなく、それぞれの経験や知識を踏まえた反応が返ってくるので、一方的に話し続ける授業にはなりません。受講生の皆さんとの掛け合いを交えながら、こちらも楽しく進めることができました。
今回あらためて感じたのは、大学院の授業には、学部の授業とはまた違う面白さがあるということです。学部生を対象とする授業では、まず幅広い教養や基礎的な考え方を身につけてもらうことが大切です。一方、大学院では、教科書に書かれていることを説明するだけでなく、現在どこまで研究が進み、どこから先がまだ分かっていないのか、研究者のあいだで何が論点となっているのかという、研究の最前線そのものを扱うことができます。完成された知識を伝えるというより、いままさに更新されつつある知見を示し、受講生と一緒に考える。自分が研究者として蓄積してきた経験を、最も直接的に授業へ持ち込めるのが大学院教育なのだと、久しぶりにその醍醐味を味わいました。そして、学ぶ意欲にあふれた受講生が相手だったからこそ、こちらも遠慮なく研究の最前線まで踏み込むことができました。
授業では、岩田修二先生の大著『氷河地形学』をテキストに指定しました。氷河地形学を体系的に学ぶうえで、いまなお欠かせない本です。ただし、刊行からすでに15年が過ぎ、その後の研究の進展によって、新たに付け加えるべき内容も増えてきました。この本が刊行された2011年は、まだ「日本には現成氷河は存在しない」と考えられていた時代です。当然ながら、その後、北アルプス各地で次々に確認された流動する氷体、すなわち現存氷河については書かれていません。つい最近も、白馬沢の氷体で流動が観測されたことを報告する論文が受理されたとのこと。これで、日本で確認された現存氷河は10カ所になりました。さらに、IPCC第6次評価報告書が「疑う余地がない」と断定した人間活動による地球温暖化、海洋に末端を持つ氷河と陸上に末端を持つ氷河を区別することの重要性、南極氷床の不安定化と海洋との関係、MISI(海洋氷床不安定性)やMICI(海洋氷崖不安定性)といった、岩田先生が同書を執筆された当時にはまだ一般的でなかった概念も盛り込みました。
教科書を土台にしながら、その後の15年間に何が明らかになり、研究の見取り図がどのように変わったのかを伝える。まさに、大学院だからこそできる授業になったのではないかと思います。そんな話を延々として、さすがに疲れてきたら、南極観測隊の裏話でひと休み。受講生の皆さんと一緒に盛り上がったところで、また氷河と氷床の話に戻る。そんな調子の、濃密で楽しい4日間でした。
社会人大学院生の皆さんの学ぶ姿勢に刺激を受け、私自身も、教えることと学ぶことの面白さをあらためて思い出す機会になりました。引き受けるよう背中を押してくれたのは、やはり岡村さんだったのだろうと思います。