ぽかぽか陽気にさそわれて、気持ちよく肉離れ回復リハビリランニングができましたが、いやなものを見てしまいました。どうりで朝からくしゃみが止まらないわけですー花粉光環
東風吹かば 涙おこせよ 梅の花
あるじ花粉に 春ぞつらけれ
橙庵
ゴミ屋敷の片付けも最終イメージに近づいて
数日前に、地下鉄でよろけたご高齢の方をとっさに支えた拍子にこちらのふくらはぎが肉離れ。どうやら私も、そろそろ「いい年」の仲間入りのようです。大したことはできないとはおもいつつ、施設に入った老爺の様子と実家の整理のために帰省しています。この連休はすっかり春めいた陽気で春山スキーにうってつけの日和に。陽光に輝く山を恨めしく眺めながら、家中の窓を全開にして風を通しています。ゴミ屋敷の片付けも最終イメージにだいぶ近づいてカフェでも開店できそうな感じになりました。オイルランプに灯を入れると、揺れる炎がなんとも心を落ち着かせてくれます。
私の「デコ活」
本日発売のBE-PAL3月号は、特集『みんなのソロ活80選』。なんとこれに私の「デコ活」が紛れ込んでおります。
コロナ禍を経て南極越冬から帰国した後、思いがけない役回りが重なって会議室滞在時間が激増してしまいました。「ならば空間を居心地重視で基地化してしまえ」と始めたのがこの活動です。暖炉風ヒーターにマントルピース、南極写真のタペストリー、100均素材による可逆DIY――原状復帰前提の大学空間で、養生テープを駆使して世界観を立ち上げてきました。その結果、クリスマスやお茶会まで開かれるようになり、研究室や役員室はいつの間にか人が自然に集う場所へと変貌を遂げました。居心地の設計というのはなかなか侮れません。
そして今、次のミッションは――立山連峰を真正面に望む実家の古家を「昭和レトロ」へと再生することです。風情といえば聞こえはいいですが、断熱は精神論、建具は気分屋、収納は歴史資料館状態。そこへ高齢の親の介護で通ううちに「片付け」を「空間再生プロジェクト」と言い換えないと気力が保てない段階に入りました。でも、見方を変えれば実家は宝の山です。押し入れからは古道具、天袋からは時代の空気。捨てればガラクタ、活かせばヴィンテージ。まさに発掘調査。専門は極地の地形学ですが、今や昭和層の発掘に取り組んでおります。
現時点で仕上げたのは、サンルームを剱岳を望むヌックに、屋根裏をリモートワーク基地に…というあたり。そして次は、昭和の建具と現代インテリアをどう調和させるかという難題へ。南極・昭和基地ではピュアな自然と向き合ってきましたが、こちらは「ピュアな昭和残存物」。ブリザードの代わりにほこりと寒気と予算と戦っていきます。さて、どこまで“レトロ”を味わいに変えられるか。続報またおいおい少しずつ。
節分
節分。
里山の冷気に包まれていた張り詰めた空気も、ようやく緩んできたように感じます。
期末試験と追試を終えたキャンパスには、学生の姿もなく、束の間の静けさが漂っています。
少し早めではありますが、春の訪れを待ちつつ、役員スペースにささやかな雛飾りをしつらえました。
ゴミ屋敷整理後のデコアドバイスをAIに求めた
施設に入った老爺への面会と、今後の介護方針について職員さんと打ち合わせるため、富山に帰省しています。本人はまだ環境に慣れきらない様子ではありますが、意外にも機嫌よく過ごしているようで、まずはひと安心でした。
それよりも、連日の氷点下と大雪には本当に参りました。しばらく無人だった断熱性能ほぼゼロの家はすっかり冷え切っていて、まずは室内を暖めるところから作業開始。金属ジョイント部では水道があちこち凍結しており、さらに落雪と積雪で家の周囲には雪が何層にも積み重なっています。これを掘り出すのに約3時間の肉体労働。久しぶりに上半身の筋肉を総動員した結果、腕は上がらず握力も消失。正直、ここは昭和基地より過酷です。
家の中がようやく暖まったところで、次は“ゴミ屋敷”の整理。床と壁が少しずつ見えてくると、「ここをどうデコろうか」「完成形はこんな感じかな」とイメージを膨らませることが、作業を続けるための唯一のモチベーションになります。完成形の具体化には、生成AIの Gemini にも助言を求めました。画像をよく見ると現実味に乏しい箇所も混じりますが、イメージ作りという点ではなかなか侮れません。
そして、ついさきほど、ゴミの地層から回収した物品を組み合わせて、ようやく「とりあえずの完成」にたどり着きました。
AI駅員「こころ」さん
なんと!多摩キャンパスへのバスの乗り換え駅である京王線めじろ台駅がAI化してました。駅員はもう常駐していません。「こころ」さん、研修中なのがちょっとこころぼそいですが、今後の成長を期待いたします。
あるじの移動
昨日、大寒波・大雪の中、昨年末より長らく入院していた老爺がフィジカルには全快して介護施設へと居を移しました。弟と交互に帰省して世話を続けてきましたが、共通テストやら学校行事やらが続いて年明けから週末が潰れがちだった私に代わって、今回は弟の番でした。その弟から移動中の写真がスマホに送られて来ました。あれだけ威勢が良かった老爺も子供のように聞き分けよくドナドナされていったようです。施設からの一時帰宅の機会はあるものの、あるじがもう家に戻ることがなくなったのか、と、大きく息をついた拍子に、行事に参加している人前にもかかわらず目頭が熱くなってしまいました。傍目には、汗を拭っているだけに見えたかもしれません。老いと痴呆のなかにいる老爺を案じつつ、もうかつての「いえ」は戻らないのだという静かな親父ロスに胸の奥がぽっかりと空いた日でした。
10年越しの“積年の宿題”
久しぶりに徹夜しました。
ほぼ10年越しの“積年の宿題”を、ようやく完了させることができました。雪氷学会の英文機関誌 Bulletin of Glaciological Research(BGR) のバックナンバーをオンライン化する作業です。
BGRの起源は1973年、ヒマラヤの氷河研究報告書として「比較氷河研究会」がまとめた成果(これがVol.1)にさかのぼります。その約10年後、ランタン谷の氷河で実施されたヒマラヤ初のボーリング調査の成果報告がVol.2として刊行され、続くVol.3・Vol.4ではパタゴニア北氷原の調査プロジェクト報告が収められました。実質的には「氷河情報センター」が長く編集を担ってきました。
また番外編として、1998年には「氷河湖決壊洪水」に関するモノグラフも刊行されています。
今回の作業を通じて、2010年にJ-STAGEへ移行するまでの約37年間(Vol.1〜2の間にある10年の空白を含めて)、とくにフィールド系雪氷研究の歴史を一気に振り返ることができました。なかなかの“氷河版・大河ドラマ”を見終わった気分です。私の名前が登場するのは本当に最後の物語の“エンドロール直前”くらいのタイミングですが、こうした先人たちの積み重ねの上に、現在の雪氷学が成り立っているのだということをあらためて実感しています。
これで学会への“オブリゲーションのツケ”は、ひとまず返せた(将来分の先払いも?)気がしますが……たぶん、簡単には離してもらえないんでしょうね。
雪煙
今日は朝から強風で、頂稜にたなびく雪煙が青空に映えていました。おそらく現地はとてつもない爆風だろうと思います。こんな日は晴天でも雪洞内で沈してしまう登山条件ですね。大日岳のあの巨大雪庇もこんな時に発達するんじゃないかと思ったり。南寄りの風なので日中の平野部は比較的暖かでした。
啓迪高等小学校
正月三が日も明け、卒論の最終チェックの合間を縫って、実家の整理を続けています。そんな“ゴミの地層”の奥深くから、また一つ懐かしい記念品が姿を現しました。
2005年に廃校となった 八人町小学校 ——総曲輪小学校と統合され、現在の芝園小学校へと歴史を引き継いだこの学校の、さらにその源流にあたる「啓迪高等小学校(明治13年創立)」 の銘を刻んだ鋳物の硯屏です。
八人町小学校は、富山市のまさに“ド中心”に位置した名門校で、私の父も長くここに勤務していました。父は、ノーベル化学賞受賞者 田中耕一氏 が4〜6年生のときの担任でした。Wikipediaにも「将来の基礎を育む理科教育を受けた」と記されています。
この硯屏の裏書には
「昭和五十年『観点変更と思考の組み替え』出版記念」
とあります。
当時の八人町小学校は、いまで言うところの“初等教育版スーパーサイエンススクール”のような実践を展開しており、その成果を数年おきに書籍として世に問うていました。この「観点変更と思考の組み替え」という教育思想は、今風に言えば、認知心理学の アブダクション推論 や 記号接地 にも通じるものではないか——と、個人的には感じています。
父はまさにその教育実践の渦中におり、その成果が田中さんのノーベル賞につながったと言っても、あながち言い過ぎではないでしょう。
田中氏がノーベル賞を受賞した際、最初の記者会見で、作業服姿のまま雛壇に座らされた田中氏が「自分の科学への興味を芽生えさせてくれたのは澤柿先生です」と語った瞬間、会場は騒然となりました。
——「その先生、何者だ?」——
疑い深い報道陣の視線も、父が残していた克明な教育記録によって一転します。一介の地方教師の試行錯誤が、きちんと教育の理論と成果に裏打ちされていたことが明らかになり、父は思いがけず脚光を浴びることになりました。
時系列で言えば、父が田中氏の担任として理科教育を試行錯誤していたのが昭和45年前後。その約5年後にこの硯屏が作られたことになります。成果をまとめ、書籍として結実させるには、ちょうどよい時間の流れだったようにも思えます。
さて「啓迪」とは、添えられていた説明書にある通り、
「道をひらき、導く」 という意味を持つ古い言葉です。
一方、私の母校・北海道大学には「恵迪寮」という学生寮があり、こちらは『書経』の「迪(みち)に恵(したが)えば吉、逆に従えば凶。惟れ影響たり」に由来しています。同じ読みでも、由来は異なります。
この説明書を記した 山田孝雄 文学博士 もまた啓迪高等小学校の卒業生であり、その子・山田忠雄 氏は三省堂『新明解国語辞典』の編輯主幹を務めた人物でした。
——教育、言語、思考、そして一人の科学者の人生——
小さな鋳物の盾から、思いがけず大きな物語が立ち上がってきました。
さて、片付けが一息ついたら老爺を見舞いに病院まで行ってくるとしますか。
注:
国語辞典や認知心理学への連想は、「ゆる言語学ラジオ」や今井むつみ先生の著書などに多くインスパイアされています。
朝まで降りしきっていた雪は昼過ぎに静まり、重く垂れこめていた雲が夕刻にはゆっくりとほどけていきました。やがて青空がほころび、日没のわずかな刹那、白き峰々は茜に染まっていきました。厳しい冬の空気の中で世界が一瞬息を止めたように感じられ、病院帰りの一時、しばし言葉を失って見入っていました。
今年もこの光景に立ち会えたことのありがたさ、ただ黙って胸に刻む夕暮れです。