やわ肌の…

先月はじめに検査入院し,検査では異常なしだったにもかかわらず,退院してきてからというもの,妙に体調の悪い日が続いた.さんざん切った張った(出した)されたのがいけなかったのか,,,

日高の調査から帰ってからは,一転してなんとなく調子が良くなった気がする.フィールドで,良い空気と水(と天然のイワナ)を思いっきり補給してきたのが効いたのかもしれない.やっぱり研究室にこもっているのは性に合わないのか...

山口大の加納隆教授のページに「パソコンとめて野に出よう」と題して詠んだすばらしいパロ歌があった.

「やわ肌の,あつき血潮にふれもせで,パソコン画面でピコピコやる君
(与太野鉄管)

...私もすっかり日高の「やわ肌」に癒されてきたというわけ. (紫)


フィールド観測のイロハ

昨日に引き続き、GPSのテスト.

雨が降ってきたので,慌ててセッティングしたら,みごとにデータがとれていなかった.ゼミや雑用の合間にやっていたので,データを回収してみて気付いた時にはすでに日が暮れて,しかも横殴りの雨となっていた.今日はもうやる気がしないので,また明日.

現場では,寒かったり風があったりしてもっと厳しい環境のはずで,そういう状況で間違いなく自動観測機器のセッティングをする技量をもつことは,フィールド観測のイロハ.

本番では失敗しないように,初心にたちかえって,もう少しカンを取り戻す訓練をしておこう.


GPS

今日から10月

11月下旬からでかけるパタゴニアで使うGPSのテスト.
いきなり解析ソフトのインストールでつまづき,深夜まで作業するはめに.

どうもWin+ハードキーってのは気に入らないんだよねぇ.


雨降り調査

日高調査から帰札.

29日は大雨警報が出ていたので山に入るのはあきらめて,十勝の海岸に津波の痕跡を見に出かける.

まだ余震が続いているというのに,海岸には釣り竿の列.これには行政側も苦慮しているという報道があるが,全く意識が低すぎる.こういう状況を登山のほうに例えればどうなるんだろう,と思ってみたり...

十勝港の構内の噴砂. 浜大樹の浜に残る津波時の潮位(平川教授が立っている位置が最高位で3m超,その下の草の列が第2波か?). 今日は一転して良く晴れた.エサオマントッタベツ川で,青空に映えた紅葉がきれい.けど結構寒い.

買い出し

うららかな良い天気.
明日から日高に調査に出かけるため,食料の買い出しとパッキング.

29日に当研究科の10周年記念シンポがあるのだが,残念ながら出席できず.

どうも,主流から取り残されていくような感じが強まってきた.


地震

今朝5時頃,強い振動で目が覚めた.
結構揺れたけど札幌は大丈夫みたい.

これは大きいと分かったので,すぐにTVの緊急放送に見入った.
放送局の対応・津波の予想到達時間・漁船の待避行動,の3つの早さに驚いた.

岸壁から身を乗り出して海面の様子をうかがっている人が映っていたけど,「あんたそれはヤバイヨ,早くにげなきゃ!」

どこかの漁港の水位が上がっている様子を目の当たりにしながら,H教授は忙しくなるかな...と思ってみたり.


Blog開始

ホームページを一新し,Blog形式でやっていくことにしました.
昨日あたりからぼつぼつ作業を始めて,なんとか公開する形まできたところです.

最近,研究面で筆が全然進みません.
のりのりで調子がよかったカナダ滞在中のことを思い出しています.
そういえば,カナダではエドモントン滞在記を書いていたことも,結構自分をのせるのに役立っていたかな?
なんて考えて,Blogをやってみることにしました.


「南極 氷床変動と海面変動」

古今書院月刊『地理』48巻5号 に,拙稿「南極 氷床変動と海面変動」が載りました.


環境研究者

エドモントン滞在記(2002.9.20より転載)

NetScienceというサイトが発行しているメルマガ“NetScience Interview Mail”のアーカイブで,地球フロンティアの江守 正多氏のインタービュー記事を読み,「第一世代」の環境研究者と「第二世代」の環境研究者という考え方にいたく共感する.

■第一世代の人の特徴っていうのは、もともとは地球環境の研究やってたわけじゃないですよね。彼らが若いときにはそんなジャンルはなかったですから。

■口実としての地球環境テーマというものと、地球環境に対する責任。その間になにがしかの形でいるっていうのが第一世代だと思うんですよ。

■第二世代っていうのはそうじゃないような気がするんですよ。自分がそうだと思って言ってるんですけどね。そもそも地球環境に動機づけられてやっている。

なるほどなあ...これは私が以前に書いたコラム“改革の前に清算を”にも通じる考え方だ.

かくいう私は,「環境科学」と名の付く修士号と学位を授与されており,名目上は「第二世代」の環境研究者に分類されることになる.はずかしながら,その名に恥じないほど地球環境というものについて真剣に考えているかと問われれば怪しい部分も多い.江守氏が述べている“基礎をおろそかにしないで...第一世代と議論しても負けないようになってこその地球環境研究だと思う”という部分に救いを感じるのが唯一の幸いか,と胸を撫で下ろしているくらいである.実際のところ,北大の地球環境科学研究科に“環境科学”の学位を持っているか,あるいは「第二世代」の環境研究者を自認できるスタッフはどれくらいいるのだろう?

上記のコラムとの関連でいうと,私が小野教授を評価しているのは,北大の地球環境研に所属する教授として,その前進である環境研時代から一貫してその理想像みたいなものを追求してこられたことにあると思っている.小野教授自身,「第一世代」の環境研究者に属する研究者であると思うが,環境科学の勃興と変遷を身を持って体験されてきて,その酸いも辛いも重々理解された上で,改革に対する様々な提言をされているのだと思っている.当然,「第二世代」の環境研究者のありかたについても,その経験に基づいた教授なりの考え方をお持ちのこととも思うのである.新しい修士のコースも,きっとそういう理念と必要性に基づいた構想であると信じたい.小野教授の改革案に批判的な意見をお持ちの方は(他の点でいろいろ問題があるにせよ)少なくともこの点だけは,ないがしろにして欲しくないと思う次第.

振り返ってみれば,今の地球環境研に,旧環境研から一貫して所属している教官はどれだけいるだろうか?ざっとみたところ,旧環境派はほんの数えるほどだ.また,ほとんどの教官はほぼ間違いなく「第一世代」の環境研究者である.中には江守氏のいうように,口実としての地球環境テーマでお金を取ってるって人もいるに違いない.そのような広いスペクトルの中でも,小野教授は限りなく右に近いと考えるのは希望的過ぎる見方だろうか?(*).

別に研究者として右が良いとか左が良いとかということを言うつもりはない.しかし,教育機関として“地球環境科学”を名乗る以上は,「第二世代」の本物の環境研究者を輩出する使命を負っているはずだということは強調しておきたいと思う.院生を折り紙付きで卒業させるという使命にのっとり,実際の修得度・完成度を保証するものとして学位というものがあるとすれば,「環境科学」の学位を授与すべき研究者をどのように育てるか,ということにもっと敏感になるべきだと思う.

誤解を恐れず極論すれば,研究科自身が率先して,“地球環境博士”をスタッフとして採用すべきだと思うし,“地球環境”と名の付く研究機関にどしどし卒業生を送り込まなければいけない,というぐらいの気概があってもいいんじゃないかと思う.もちろん,ここでいう“地球環境博士”とは,決して第一世代のコピーのことではない.

残念ながら,研究科改革論議では「第二世代」の環境研究者像については曖昧なままだ.そういう議論をみるにつけ,実はここの教官たちは限りなく左に近い環境科学者たちじゃないのか,と疑念を抱かざるを得ないのである.この疑念をはらす(あるいは現状や改革の方向に納得する)には,“改革の前に清算を”実施することが非常に重要なことだと思う次第.

なお,関連するリンクをたどっていて,亡くなった沼口さんのことにも少し知る機会を得た.なかなかすごい人だったんだなあ,と残念に思う.私もボヤボヤしてないで,がんばらなきゃなあ...合掌.


*)江守氏は“第1回沼口敦さん記念シンポジウム”での講演の中で,「環境」という予算で活動する研究者像を分類されている(PDF参照).私は,おそらく小野教授はそのどれにもあてはまらないタイプだと思う(だから理解されないのか?)


市民科学者の育成と氷河地質学

東大法学部の塩川伸明教授のホームページにある“読書ノート”をつまみ読みする.中でも,クーン『科学革命の構造』・佐伯胖『コンピュータと教育』・ポパー『歴史主義の貧困』・金森修『サイエンス・ウォーズ』は非常におもしろかった.

今年度から札幌の研究室で始めた新しいコースについて,私なりに理解していることは,「環境研究者」へのステップとして「市民科学者の育成」という側面をその教育達成目標の中に多分に持ち合わせている,ということである.その意味において,『サイエンス・ウォーズ』の項の中で塩川教授が例えている,“ある種の「ヌエ的な奴ら」”を作り出そうとしているともいえる.

そういう“ヌエ”にとって習得させるべきリテラシーとは,本物の科学者の生態を実地で学び取り,その手法や考えかたを理解すること,そして自分でもそのような思考ができるようになることだと思う.これはある意味では非常に哲学的な課題であるけれども,哲学的側面と平行して,実質的な科学的課題にも正面から向き合わせないことには,本当に自分の頭で考えることもできないだろうし,血肉ともならないと思う.

例えば,塩川教授の文章は社会科学者の視点で書かれているのでやや抽象的な表現が多く哲学的である.しかし,私自身はパラダイムとか科学論争といったものにまさにどっぷりつかっている身なので,現実的・具体的例を想定できて,その趣旨は非常によく理解できた.そういう経験を院生にもしてもらいたいのである.


ではここで具体的な話に移ろう.氷河や氷床の底でどんな地質学的プロセスが働いているか?この課題に関して,1980年代にパラダイムシフトがあった(と,ある研究者が勝手に書き立てた?).現在の氷河地質研究は,まさにこの新しいパラダイムにのっとった「通常科学」の黄金期を謳歌している(かのように見える).しかし,その一方で,これとは対立する仮説が1980年代から存在していたことを忘れてはならない(じつは私はこちらのほう).厳密にいえば,氷河地質学にはパラダイムなど存在しないのだが,だれもがついついよりどころにしたくなるような理論や仮説というものが存在していて,大きな権勢をふるっていることは確かなのである.

このところ非常に気になるのは,こうした一方的な仮説がもてはやされるあまり,物事の本質が見過ごされてしまうのではないかということ.最近読んだ論文で,私には苦し紛れとしか思えないようなアドホックな解釈による考察が展開されているのを見て,それがこの分野ではある程度名の通った一流の研究者の手によるものでもあることから,非常にがっくりした思いをさせられた.こうした論文を読むにつけ,そろそろこの分野も混迷期に入ったかな,と思わざるを得ない.そう思う一方で,“新しいパラダイム”がもてはやされ「通常科学」の黄金期を謳歌しているだけに,このことに気づいている研究者は少ないにちがいないとも思う.

“新しいパラダイム”は,数式を駆使してもっともらしく氷河底の地質学的プロセスを記述しているが,そこから生み出される予測的な要素は,私にいわせれば「何もない」.地質学とは,そもそも,演繹的な反証が不可能な課題を多く扱う分野である.個々の事象を全体のコンテクストにあてはめて解釈するのがその主たる手法であり,解釈の正当性は,全体のコンテクストを合理的に説明できるかどうか,という帰納的な視点で判断されるものなのである.

その意味において,“新しいパラダイム”は必ずしも全体を説明しきれていない.地球温暖化や未来の気候変動予測が注目されている中,誤った(あるいは偏った)視点に基づく解釈やモデリングが横行するならば,きっと気候変動科学は未来予測に失敗するだろうし,その失敗から被る人類の損失も大きなものとなるにちがいない.

世の中の氷河地質学者は,一刻もはやく自らのスタンスを見つめ直すべきだと思う.もちろんこれは,自分が関わる陣営にとっても同じこと.塩川教授が『サイエンス・ウォーズ』の項で,一般の論争というもののあり方について考えている第四節は,非常に含蓄に富む示唆を私に与えてくれた.

さて,院生の諸君は以上の記述をどこまで理解できたであろうか(日本にいればレポートを書かせたいところなんだけど...)


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