謹賀新年

一年間にわたって道新が特集してきた48次越冬隊の「南極通信」が今日で最終回を迎えた.我々が昭和基地を引き継いできた人たち,特に北海道にゆかりのある隊員からの情報を元にした記事だけに,私にとっては帰国後もずいぶん楽しませてもらった特集である.
最終回(番外編)にあるシャクルトンの公募メッセージにまつわる話は,なかなか心憎い演出.小川ドクターが学生時代に北大でみたという山岳部の新人募集ポスターは実は私の作である.たぶんこの道新の記事は,この連載を企画された山岳部OB記者のものにちがいない.「なぜ、南極に行くのか」という問いに,真剣に向き合う人々の合作は,わたしの中では傑作の一つに位置づけられる.
実は,執筆中の原稿中に同じネタでコラムを書こうとしていた矢先のこの記事で,先にやられた,と思ったのものまた事実.
小川さん,戸田さん,無理なお願いを押しつけてきてしまってどうもすみませんでした.越冬交代まであと少し.安全な夏オペの完遂と無事のご帰国を祈願しております.そして昭和基地や大陸で活躍の皆さん,どうぞ良いお年をお迎えください.
JARE48-49内陸トラバース隊が,スエーデン隊と合流したらしい.
こういう記事を読むにつけ,もう一度プロフィールに掲げている以下のことを噛みしめたくなるこの頃.
私の研究観
「開拓者は矢を受け,入植者は土地を手に入れる」
現在の研究のモットー
「...されど開拓者たれ」
そろそろ入植者として落ち着きたい年頃かも.
h-pagesの納会.
意識の高い方々の議論について行けないところもあり,自分の勉強不足を痛感.といっても,こっちにはこっちの専門が有るわけで,双方のギャップと相互理解と協力をすすめることがこの会合の目的でもある.それにしても,この業界,省略語が多すぎ.
富山のおばさんから送られてきて,息子が大切に育ててきた水栽培のチューリップが咲いた.子供部屋は甘い香りで一杯.低温処理で開花調整し,今頃に開花するようになっているものを「クリスマスチューリップ」というらしい.長い冬で締め切りがちになる札幌の家だが,こういうのもいいな,と思った.
20年前のネタで書いた原稿が載った雑誌が送られてきた.原稿料の現物支給の意味もある.興味のある方は書店でどうぞ.
ドラムリン問題の話はどこでも一般受けしない.サイエンスカフェでも,この話題に入ったとたんに聴衆の興味がサッと引いたのを感じた.現在書いている原稿でも,編集者から長すぎるというコメントがついて,一章分書いた中からわざわざドラムリンの項目をねらったかのようにそこだけがすっぽり削除されてしまった.カフェでの聴衆の反応よりも原稿が削られてしまったほうのショック大きいのだけれど,どうしたら,一般受けしてもらえる原稿になるんだろうと悩んでしまう.
火星でも持ち出すしかないかな?
CoSTEPが,そのノウハウを伝える「始めよう!科学技術コミュニケーション」という教科書を今月末に出版するらしい.前に著者から,サイエンスカフェ札幌で私が話したときの様子の写真を使っても良いか,という問い合わせが来ていたので,教科書が出来ることは知っていたけれど,もう出るの,と思った.
出版社は京都のナカニシヤ出版.ここからは,私も分担執筆した本を今年に出していて,その原稿料がほんとにささやかながら入ったばかりなので,CoSTEP本を一冊買ってみようかと思う.これで原稿料はナカニシヤに還元されてすっかりチャラ.
今日で札幌の小学校は二学期が終了.昨夜子供とテレビを見ていたら,ソグネフィヨルドやフロム鉄道が出てきた.来夏公開の劇場版ポケモンは,ノルウェーをモチーフにした「氷空(そら)の花束」という作品になるらしい.その予告編を見ながら「パパはここに行ったことあるし,こんな氷河に削られた地形を調べているんだぞ」と言ったら「スゲー」と感心されてしまった.北欧の風景がどんなふうにアニメ化されているか興味がある.夏休みには,息子につきあって見に行ってくるかな.
ところで,ペンギン怪獣「ペギラ」は南極にいるけれど,氷河ポケモンなんてのは,公式には存在しているのかしら?
数年前の大学法人化の直前に,研究科の点検・評価が入って,評価機構に提出する業績資料作りにかなりの時間を使わされた.そして今,法人化と学院への改組から数年たって,またまた点検.評価が課せられている.その中で,前回の法人化前の時に作った資料をもう一度出してほしいという依頼がきた.
前回の点検時に苦労した経験から,最近はなるべく同時進行・即時更新をこころがけて院生の業績を記録するようにしてきたが,これも自助努力の結果にすぎない.教員のほうは研究者としての自己評価もかかっているので,自前で自分の業績を管理している人が多いけれども,所詮,自己申告がなければ正確な把握が困難なのが業績記録.定期的な出入りが必然である院生や研究員の業績を過去にさかのぼって追跡することは非常に難しい.そのため,ついつい記録から漏らしがちになるのが苦労の種だ.
そもそも,業績を申告しないと修了させない,という規定でも作らない限り,院生にとっては組織の評価なんてどうでもいいことで,業績を記録してもらおうとするモチベーションは彼らにはまったくない.その一方で,組織としては,提示できる成果の量如何によっては自身の存亡もかかってくる時代になっているだけに,細大漏らさず記録しておく重要性はますます大きくなっている.なんとかこのギャップを埋めて,部局レベルで組織的に責任をもって記録する方法ってできないものだろうか?
この問題,昨今の年金記録管理問題にも似ているところがある.年金とは違って,学会発表や投稿論文の記録を申告しなかった院生が将来的に直接不利益を被るわけではないけれども,少なくとも大学院という最高学府で人生のいくばくかの時間を学術活動に費やしたことの記録がすっぽりなくなってしまうことは,ある意味,悲しいことだとは思わないだろうか?
人によっては,この大学院にいたことすら記録や記憶から抹消したいと思うケースもあるかもしれないけど...ここには,学術活動を個人の活動とみなすか,それとも組織に帰属するものとみなすか,という大きな問題もはらんでいる.極端な話,指導教員になんの連絡もなく,共同発表者に入れることもなく,院生が勝手に学会発表したり論文を投稿したりすることだってあるわけ.それをとがめられるかどうか,逆に院生のほうが,指導教員あっての研究成果だと思って発表できるかどうか,ということ.
教員側は教員側で,勝手に発表されたものであっても,実績として提示できるものならなんでも入れたい,という誘惑にも駆られるのは確か.勝手にやりやがって,と心で思いつつ業績リストに入れてしまうこともあるだろう.まあ,この場合は院生の個人的な研究成果として尊重しているだけマシで,世の中には,院生の成果をそのまま自分のものにしてしまう指導者もいると聞く.
いづれにしても,自己申告に発する業績記録を,自助努力によって日々蓄積していく積み重ねが,将来的に組織の存亡にかかわってくるという構図はまさに年金問題である.これはもう,指導教員と院生との関係レベルの話ではないことは確かだ.
まあ,要するに,本業以外のこんな雑用で時間をとられるばかばかしさと,教育という行為がそういう評価体制に縛られていることの理不尽さと,その世俗的重要性と組織的対応がかみ合っていないことへの不満と...ふと,まるで昨今の世の中の縮図をみているかのような気持ちになった,ということなんである.
お昼ごはんの時に教授がよく話題にする柳田さんのBlogを初めてみてみた.今日は「先住民的な研究」という話題だった.
しかし、これが聞いたこともない雑誌とか、科学の世界では辺境のような場所とか、そうでなくとも、日本人が日本でやっていて、ほとんどまわりが気にしてないような研究としていたとします。しかもそれが新しい研究で、さんぜんと光り出すような研究になるとします。欧米系の研究者ではこういう時に、この聞いたことのない研究はまあ先住民的なので、「無視」しよう、と決める人達が案外いるのです
ああ,そうだったのかと合点.
「さんぜんと光り出」してはいないとしても,私の場合,かなりこれに当てはまるような気がする.10年前の論文は,ようやく最近ちょっと光り始めた気がしているけど,先住民的に扱われてきたと思えるフシはいくらでも思いつく.その一方で,エドモントンでお世話になったShaw教授には,言葉の問題とか無名の田舎研究者とか,そういうことに関係なくつきあっていただいた.そういえばShaw教授も
世の中には既に発見されているのに、もう一度発見したがる人達が沢山いるのだよ
と同じような言葉で慰め勇気づけてくれたことを思い出した.まあ,学説論争の中で同じ立場にいるという,それだけでも,身内感覚でつきあっていただけた要因を持ち合わせていたというのもあるのだけれど...
ということで,近況報告と最近の論文の別刷りを添えてカナダへクリスマスカードを送った.Shaw先生はお元気かしら?