南極教室その3

10/1711/8に書いた「南極教室」の北海道での活動に関するアイデア・思案.

南極OBをボランティア講師として講演活動を中心に繰り広げようとしている南極観測宣伝であるが,賛同者の全国的な傾向としては研究者が主体のようである.でも,南極観測は研究だけで成り立っているのではなく,その陰で支援してくれている設営部門とよばれる隊員たちの存在が欠かせない.わたしはそういう人たちにこそ光をあてるべきじゃないかと思う.

設営の中には,医療・調理・メカニック・通信等が含まれるが,彼らだって立派に講師をつとめることができると思う.コックや医者,エンジニアだって立派な職業だし,南極での実際の付き合いから感じた限りでは,プロフェッショナルとしての気概の持ちようは学者以上で,彼らから学べることはたくさんあると思う.むしろ,世の中の子供たちがみな研究者や学者になる訳ではない.学者以外の普通の人々のポテンシャルの高さや生き方を子供たちに見せる方が,よっぽど役にたつと思うし励みになると思う.

そういう人たちを教室ぶった場所に引きずり出すのが難しいなら,彼らの仕事場に押し掛ければ良い.たとえば,調理の隊員が勤務するレストランで,元隊員が腕をふるった南極メニューに舌鼓をうつ,とか,雪上車の組み立て工場見学をするとか,いろいろアイデアが浮かんでくる.

いっそのこと,これらを全部ひっくるめて,「南極観測ゆかりの地ツアー」のような小旅行を企画してもいいんじゃないかな.タロの剥製がある北大植物園を皮切りに,犬ぞり訓練地だった稚内の青少年科学館を訪問したり,樺太いぬの現状をみてみたり,ドームで使われているアイスドリルの開発地を訪ねてみたり…

これは結構愉快な旅になりそう.北海道では賛同者が5人と少ないけど,その場その場に行けば南極OBなんてごろごろしているはず.その地の利を生かして,こちらからおしかけていけばいいのだ.郷土再発見の旅にもなる.自分の生まれ育った地が南極と通じていると感じることができるなんて,なんてすばらしいことだろう.

こういうツアーを引率するのも「自然ガイド」っていうのかなあ.ハルエさんあたりに相談すれば,旅行会社とのタイアップでよい企画ができるかもしれない.商売っけが入ってしまうけど,そのくらいじゃなきゃ,新しい展開は生まれてこないような気がする.

私がガイドコースの院生だったら,このテーマで修論を書くな,きっと.


「はみ出し者」と「フェロモン野郎」

先日北大で開催された日本動物行動学会で行われた「アリ」に関する研究発表がマスコミで取り上げられていた.

えさ場に仲間を誘導するフェロモンの感知能力が完全であるアリだけの集団よりも,その能力が低いアリを含んでいる集団のほうがえさの獲得量が多かった,という結果.

報道のタイトルには「はみ出し者」とか「優等生集団より稼ぎ多い」などとあるが,この言い方はどうかと思う.「フェロモンの感知能力が完全=優秀」というのはあくまでも「フェロモンの感知能力」について「優秀」なのであって,「フェロモンの感知能力」がアリの優劣そのものを決める要因の全てはない.実際,アリは「フェロモンの感知能力」の低い個体を「はみ出しもの」にしていたとでもいうのか?

報道にもそのことについては(研究者のコメントとして)一応ちゃんと書いてある.ーー能力の低いアリは無作為に動き回るため、新たなえさを見つける機会が増えたと想定されるというーーと.つまり,集団の成果を向上させるためには,決められた道を忠実に歩く能力の他にも,無作為にいろんな可能性を試す能力も必要だ,ということだ.

とはいえ,あいかわらずフェロモン能力だけに注目して「能力の低いアリ」と書いていることろが気に食わない.マスコミはきっと「能力の低いアリ」の意外な効果を強調したかったのであろう.せっせとえさを運ぶアリの姿が,今の日本人像にぴったりくるからなのかもしれないが,「決められた道を忠実に歩けなければ低能力」と決めてかかっているその固定観念(あるいは一般受けしそうなフレーズ)が,今の日本の世の中を悪くしている根源であると思う.そりゃ,最初にえさを見つけたやつが一番偉いに決まっているじゃん.だから,門外漢の私がこういっちゃ悪いんだけど,日本のマスコミ受けした今回の研究も,論文のタイトルの付け方もこんな感じだったら,フロンティアスピリットたっぷりの外国のレフェリーがみたら「そんな解釈が通用するのは日本だけ」と一蹴されるかもしれないよ.

当のアリの研究者は,そんなつもりは全くないハズ.私としては,「えさを見つける能力」の高いアリに注目した研究結果もみてみたい.さらに,できるなら,アリさんたちから,どのアリを一番尊敬しているかも聞きだしてもらいたい.私は,人間が「優等生」と勝手に決めつけた「フェロモン野郎」は,アリ達自身の間では評価は低いと予想する.逆に「フェロモン能力」の低い個体がやっぱり「はみ出し者」扱いされていれば,それはそれで面白いけど.

それにしても,日高敏隆教授が初代会長だっただけあって,動物行動学会って結構面白そう.今後もぜひ,学者らしく客観的に「能力」の評価基準を,未知を開拓することの意義を忘れた日本人に示して行ってほしい.

パイオニアがいない社会は,結局負けるのである.しらせの問題しかり,大学評価の問題しかり…アリに教わらなければ学べない日本人っていったい…


自己責任

知床の藤崎さんが「自然に関る法律や科学」ということで,「自己責任」について言及されている.

これを読んでいて,この夏に豪雨被害を出した台風10号に関係して,日高山脈に登っていた北大山岳部がマスコミや関係機関を騒がせた(かってに騒がれた)という事件のことが頭をよぎった.

事件のあらましはこうである.豪雨で下山路がずたずたになった状況において,幌尻山荘からツアー登山者がヘリで救出されるということになり,その折,同じ山荘で減水待ちをしていた北大山岳部のパーティーはヘリに頼ることなく自力で無事下山した.その際「山岳部のパーティが山荘管理人の制止を振り切って下山を強行した」との誤った報道が流れたのである.

当時は記録的な災害の中で情報が錯綜していた.誤報のもとになった報道機関もその後の報道で内容を訂正したのであるが,災害の対応や対策に手一杯の地元の関係機関には,よけいな心配をおかけしてしまったということで,心証を害してしまった感がある.

山岳部は活動の性格上,事故や遭難の危険があり,その際には地元や警察・行政のお世話になることは避けられない.そのため,北大山岳部では,できるだけ迷惑をかけないように,日頃から山行計画や事故が起こった場合の対処方法について真摯な検討を重ねてきている.

その検討の中で基本となるのが「可能なかぎりパーティー内・部内の自己責任で山行を行う」という考え方.

この一件に関する報告を受けて,山岳部内では,OBの連絡網も巻き込んで様々な議論が巻き起こった.その主な論点は,こういう状況におかれた登山者ははたして「遭難者」なのか,それとも「被災者」なのか,そしてこういう状況では「自己責任」はどうあるべきなのか,という点であった.

私は,山岳部のパーティと一緒に山荘で待機していた登山者の大半がツアー登山のパーティであったことからくる誤解のようなものが議論を複雑にする要因となっているものと考えている.というのも,最近の百名山ブームによって,ガイドに引き連れられた登山者が,この山域で問題を起こすケースが増えている,という背景があるからである.

百名山ハンターがポロシリ岳への登山路として使うルートは沢沿いにあり,降雨があれば増水して身動きがとれなくなることがしばしばである.ツアー登山者が起こすトラブルは,日程的に余裕のないために無理をして増水気味の沢を下ろうとすることに起因している場合が多い.さらに,好天で水量も安定しているうちは良いが,ツアー登山の参加者の中には,ちょっと状況が変化しただけで自分たちの体力や経験だけで対処できなくなる者もいるようだ.もちろんガイドがついているけれども,多くの客を引き連れる中で,個々への対処が行き届いているかどうかは疑問が残るし,実際に事故も起きている.

しかしである,そのように批判されるべき登山者にとっても,台風10号がもたらした状況は異常であった.どんな登山者でもあの状況であれば「遭難者」ではなくて「被災者」として扱われるべきであろう.一部の報道では山荘にいた全ての登山者を「遭難者」扱いしているところもあり,その点でも報道は間違いを犯している.

かといって,ツアー側がどこまで自分たちを「被災者」であると認識してヘリの救援に頼ったのかは不明である.単に自分たちではどうしようもなくなったから救援を呼んだのではないか,とも考えることはできる(が,彼らに話を聞いてみないことには真相はわからない).その一方で,「自己責任」の原則を貫こうとして行動した山岳部のパーティが責めを負うことにもなった.

もし,下界の災害の状況が山中まで伝わっていなかったらどうなっていたか?もし,山岳部のパーティが山荘ではなくてツアー登山者と別の所で待機していたらどうだったのか?

まだこの件については,私はちゃんとした結論はだせないままになっている.だから,山岳部の判断が100%正しかったとは私も思っていない.しかし,自己責任の精神を持ち続けている北大山岳部の現役諸君のことは誇りに思うし,藤崎氏が述べている,「人間としての実感を感じることのできる貴重な体験」をどんどん積んで行ってほしいと願っている.そういう精神を維持することは,この現代において貴重な存在なのではないかとすら思う.

藤崎氏も述べておられるように,「自己責任」でつっぱってしまうと社会との軋轢は避けられない.北大山岳部の件もその一例といえるかもしれない.しかし,自然と人間との対峙の場において,「自己責任」の意識は重要である.かように「自分の責任において自然の中に身を置くことができる権利」とは,なかなか難しいものなのである.「自然ガイド・環境保全指導者養成コース」をうたっている講座の一員としても,今後も考察を重ねて行かねばならない命題だと思う.


南極教室その2

10/17に書いた「南極教室」の北海道支部の会合に出席.

会合といっても,北海道で5人しか手を挙げていないうちの4人の集まりなので,寂しい限り.

お一人は北海道東海大のDeanで,あとのお二人はほとんど引退状態にある方々.それでも,南極に対する情熱の持ちようは人一倍という強者の皆さんであった.

どうも私は老人受けする性格なのか,唯一の若輩だったにも関わらず,皆さんに気に入られてしまった.第何次の観測隊の誰それがどうのこうの,という老人の思い出話に,なぜか不思議とついていけるのが受けたのかもしれない.また,北大山岳部で培った,世代を超えた人脈も役に立っているのかもしれない.

そういう意味では,南極や北大山岳部の歴史的経緯については,少々マセガキぎみだった私の存在価値,というのもそれなりにあるのかも知れないと思った.

何事につけ,結局は人間がやっていることなのだから,人脈を築くとか,それなりに年寄りの話についていけることの重要性はあるのではないか,と思った次第.

肝心の南極教室のほうは,現役の南極研究者を引っ張りださないことにははじまらない,ということで意見が一致.これから私にたくさん仕事が回ってきそう.

現役の南極研究関係者の協力を求む.


コンテクスト

しらせの後継船問題に関して,内閣府の総合科学技術会議のホームページにある「南極地域観測事業」に関する評価検討についてのPDFを読んでいたら,地学はどうも評価があまり高くないらしい

私などは,「日本の南極観測事業」という,いろんな条件や制約があって,がんじがらめの状態の中での研究にしてはよくやっているほうだ,と思うのだが,やはり「結果が全て」なのかなあ.一応,輸送・設営・研究の予算配分が特殊性を示している,というような記述があるので,そこに期待.

「評価が低いから無用」と決めつけるのは正しくない.むしろ,もっと成果をあげて国際的なレベルに追いつかせなければならない分野なのに,どうしてそうならないのか,という視点を持つべきだろうと思う.

そのためには,もっと機動力を向上させて時間的制約を軽減させること,そして隊員資格のしばりをなくすことが必要だと思う.要するに欧米並みの条件を整えなさい,ということだろう.

自分が関係している地学分野に関していえば,これまでの日本の南極観測は非常に大きな制限の中で行われてきた.ヘリが飛ばなければ調査地に出ることすらできず,調査ができてもその時限りで,再訪の保証もないし,私の経験に照らせば,実際に再訪の機会が回ってこないことのほうが多い.今年から試験的に人員の空輸計画が始まるけど,それにしても昭和基地まで行ける訳ではないので,あてにはできない.現場での機動性が重要なんである.

これは,ロケットで月まで行って石を拾ってくるようなもの.そういう状況におかれた研究環境の成果をどのように評価すべきか,ということに関して,はたして評価者は正しい視点を持っているだろうか?

そのことで審査員の方々に是非知っておいていただきたい物語がある.それは,アポロ15号の物語.これについての詳細は,滞在記(9/5)に書いたことがあるので,そちらを参照していただきたいが,再訪の機会が保証されていないという現在の状態は,「コンテクスト」の把握というレベルでの仕事にいおて成果を迫られているに等しい,ということを訴えたい.

滞在記にも書いた通り,そのような仕事は,地質学の中でも最も重要で最も困難なこととされる.だから,評価者も,月に石を拾いに行った研究者を評価するぐらいの気持ちであってほしいと思う.

しかし,いまやこの現代において,世界レベルと言われる研究は,「月の石を取ってくる」ということに価値をおいて競争しているわけではいない.だから,日本の南極研究者をいつまでも「月の石とり任務」に就かせておくことは,日本が国際的な協調関係を保ったり,学術レベルで世界と伍して行くことを望む向きにとっては好ましくないことは明らかなわけで,そこをどうするか,が問われているのである.今のやり方で「成果が出ていない」と研究者を評することがあれば,それは酷というものだろう,とPDFの書類を読んでいて思った.


転載第二弾

「滞在記」の中から会心の一作を転載する第二弾.

市民科学者の育成と氷河地質学

主に,ガイドコースの指導指針みたいなものについて,「氷河地質学」の経験から考えたこと.


太陽の活動

低緯度でオーロラが観測された前回を上回る規模のフレアが発生したらしい.

NOAAの地球観測衛星が搭載するセンサーの計測能力を超えたというからすごい.

しばらく様子をみるために,トップページの左コラムに10分ごとに更新されるインジケータをリンクしておくことにする.


「しらせ」の後継問題

砕氷艦「しらせ」の後継船の建造予算がつかない問題で,著名人が動き出したらしい.

エドモントン滞在記(12/14)にも書いたが,南極に関する国策としての日本の視点の貧弱さは今にはじまったことではない.そもそも,昭和基地の建設に始まる現在の観測事業だって,朝日新聞のキャンペーンや永田武教授の熱意に共感した国民の盛り上がりに負うところが大きいのだ.

中国の有人宇宙飛行を時代遅れと評したり,日本もやろうと思えばすぐにできる,なんていうのは,負け惜しみにすぎないばかりでなく,「やってこそ本物」ということを分かっていないフロンティアスピリットの欠乏を示すよい証拠そのもので,南極観測への無理解と根底ではつながっている.

これからの南極観測には航空輸送も視野に入れていく必要があるし,今回から外国と共同で航空機を使った人間の移送が試験的に始まるが,物資の大量輸送はやっぱり船.次の船がなければないで,外国の砕氷船をチャーターすることもできるが,これじゃ,人工衛星を打ち上げるのにNASAのロケットに頼るのと同じこと.そもそも,船の建造に金を出さないという政府の無関心さや優先度の低さが問題なんである.

実は,これまで日本の南極観測は一度中断したことがある.1962年に6次隊によって昭和基地はいったん閉鎖され,その後1966年に7次隊によって再開されたのが現在まで続いているのだ.

これまで南極用に使われてきた船のうち,中断前までに使われていた初代の「宗谷」を別として,再開後に就航した二代目の「ふじ」と今問題になっている三代目の「しらせ」は砕氷「」と呼ばれている.これには,それなりに意味があって,勘のよい方は意味を察していただけると思う.そのことにキナくささを感じて好ましく思わない方々も多いと聞いている.しかし,国策がからむということは,そこまで覚悟しなければならい面もあることは事実.そもそもなぜ「文部科学省」が「艦」の建造の予算取りに苦慮しなきゃいけないのか,ホントにこの国はどういう仕組みになっているのかよう分からんのではあるが,砕氷艦を登場させることによって,一度中断した南極観測を復活させた当時の関係者のしたたかさは見習わなければならないかも…

復活当時に関係された政治家は,今回の総選挙では定年退職される.そういう時期と重なるのは単なる偶然かもしれないが,政府が,もはや国策としての南極観測の重要性を意識せず,優先度を下げるというのであれば,四代目としては,純粋に「船」としての運用が可能な学術船を建造する動きにつながってもよいのではないかと思う.学者としてはそちらのほうがずっとうれしい.

なお,滞在記のリンクにある「日本人とフロンティア」は,幸いまだ生きていたので,一読されることをお勧めする.


無題

9/10, 8/10, 20/20, 9/10, 17/20, 63/70


風邪?

札幌と富山の気候差に対応できず,体調不良.


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